Vol.947-3/4に続けてご覧ください。
<46.沙弥島・瀬居島> <撮影:2015.04.25>
遠い昔、沙弥島(しゃみじま)と瀬居島(せいじま)は一つの島でした。その形が三味線に似ていたので、三味線島と言われました。この島には吉田屋と大津屋という二軒の酒屋がありました。吉田屋の主人は働き者で、美しい気だてのやさしいお菊という娘がおりました。ある日、吉田屋の繁盛を憎んだ大津屋は、吉田屋の主人を船から突き落としました。そして、吉田屋の店を大津屋は手に入れてしまいました。お菊は悲しみのあまり、海へ身を投げてしまいました。その日より大津屋には、様々な不幸が起こりました。ある晩、大津波が島を襲い、三味線の軸にあたる部分の細かった陸地が波で削られて、島が二つに分かれてしまいました。それ以来、島の名を三味島・線島と呼ぶようになりました。やがて三味島を「沙弥島」、線島を「瀬居島」と呼ぶようになったということです。 (坂出市HP)
<所在地>
▼沙弥島・瀬居島-坂出市沙弥島/坂出市瀬居町-番の州コンビナート、陸続きになった島々
聖通寺山東側の常盤公園登リ口から、県道を瀬戸大橋沿いに北方向へ約3km行った番の洲の、西北方向に「沙弥島」、東北方向に「瀬居島」がある。
▼沙弥島
▼瀬居島
<概 要>
坂出沖から島々の間に広がっていた広大な番の州は、1967(昭和42)年の埋め立て事業の完成によって陸続きとなり、一大コンビナートを形成した。また、1988(昭和63)年の瀬戸大橋の完成に四国の玄関ともなった。埋立地の北端、沙弥島の東側では同年に瀬戸大橋架橋記念博覧会も開催され、パビリオンの1つであった瀬戸大橋記念館には、瀬戸大橋架橋事業の展示をしている。また跡地には櫃石島(ひついしじま)ゆかりの日本画家・東山魁夷の作品を中心に展示する「東山魁夷せとうち美術館」が2005(平成17)年に開館した。
▼瀬戸大橋記念館
▼瀬戸大橋記念館展望台
▼瀬戸大橋記念公園-1
▼瀬戸大橋記念公園-2
▼瀬戸大橋記念公園-3
▼東山魁夷せとうち美術館
<歴史遺産>
沙弥島は、原始・古代の遺跡が多く、島の北東側のナカンダ浜には、「沙弥ナカンダ浜遺跡」(県史跡)がある。
▼ナカンダ浜、沙弥ナカンダ浜遺跡
▼タンボの石棺、長崎鼻の石棺
沙弥島の山頂近くにある「白石(しろいし)古墳」(古墳時代後期)の石室からは製塩土器や金環・須恵器などが出土している。
▼白石古墳広場
また、ナカンダ浜の西の岩礁には柿本人麿(かきのもとのひとまろ)碑が立つ。
碑に刻まれている「玉藻(たまも)よし讃岐の国は国柄(くにがら)か見れども飽かぬ神柄(かみがら)か」の歌は、柿本人麻呂が創ったもので、「万葉集」巻2にみえる。
▼ナカンダ浜と碑
▼柿本人麿碑
沙弥島の南西の吉野山(権現山)の山頂部には、約10m四方の方墳である「千人塚(せんにんづか)」(県史跡)がある。鉄剣が出土し、古墳時代中期から後期頃のものと考えられており、周辺には9基の箱式石棺や小石室をもつ陪塚(ばいちょう)群がみられる。被葬者は、沙弥島の海浜部で活動した製塩集団の長であると考えられている。また伝説では、島ゆかりの僧聖宝(しょうぼう)(理源大師)の母綾子姫の墓とされている。
▼千人塚-1
▼千人塚-2
近世になると、沙弥島は塩飽人名(しわくにんみょう)650人の支配下に入る。初めは無人島であったが、1644(正保元)年、与島の岡崎次郎左衛門が畑高10石を沙弥島において開発し、人名9人を移住させた。
瀬居島も同様に人名の支配下にあったが1659(万治2)年、本島泊浦の宮本田太夫が畑高13石を瀬居島において開発し、人名20人を移住させた。入植した島民が宮本伝太郎家の支配から自立するのは、寛政の訴訟を経た1794(寛政6)年2月のことである(見勢家文書)。訴訟中の1793(寛政5)年、漁師の又吉が瀬居島に僧を連れてきて、弘法大師を祀ったという伝説があり、この時つくられたのが瀬居島の「四国八十八個所写し霊場」といわれる。今も島内に石仏が巡っているが、現在の姿は大正時代頃に整備されたものである。
▼四国八十八個所写し霊場-1(web引用-水彩画風変換)
▼四国八十八個所写し霊場-2
▼四国八十八個所写し霊場-3
▼四国八十八個所写し霊場-4
▼四国八十八個所写し霊場-5
▼四国八十八個所写し霊場-6
▼四国八十八個所写し霊場-7
又吉が弘法大師を祀った日が旧暦3月28日で、現在では月遅れの新暦4月29日には坂出方面から多くの信者が訪れ、島のあちこちで接待がある。大師市(だいしいち)と云う。
▼大師市(web引用-水彩画風変換)
瀬居島から約2km東北海上にある小瀬居島の周辺は、昔から金手(かなで)と云われて、タイのよい漁場であった。高松領と塩飽領との間で漁場が争われた時、1741(寛保元)年の裁許で、櫃石島の東約3kmにある室木島の東端と小瀬居島の東端と瀬居島の東端を結んだ線が両者の境界と決められた。
このときの裁許状は、本島の塩飽勤番所で展示されている。
▼塩飽勤番所、裁許状(web引用-水彩画風変換)
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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