Vol.942-3/3 R巻頭-54。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:29<古戦三十六・白峯寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.942-2/3に続けてご覧ください。

 

<40.白峯寺 <撮影:2012.11.19 and 2013.10.22>

白峯寺(しろみねじ)は、真言宗御室派の寺院で、四国八十八箇所霊場の第81番札所である。

寺伝によれば、空海(弘法大師)が弘仁6年(815年)この地に訪れ、白峰山頂(標高337m)に如意宝珠を埋めて、仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をし、創建した。

また、円珍(智証大師)が貞観2年(860年)、山頂に輝く瑠光を見て登頂、そのとき白峯大権現の神託を受け、瀬戸内海に浮かぶ不可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み安置したと伝えられている。

後に、長寛2年(1164年)崇徳上皇が讃岐流刑地で没し、遺詔により当寺上の稚児嶽で荼毘に付され陵墓が造られた。その3年後には西行法師が詣で法楽を行った。

その後、建久元年(1190)後鳥羽天皇により、慰霊のため陵墓近くに、崩御までの6年間を過ごした鼓岡の御所である木の丸殿を移築し法華堂が建てられ、さらに、応永21年(1414)に後小松天皇は上皇の成仏を願い自筆の「頓證寺(とんしょうじ)」と書かれた勅額を奉納し頓証寺殿となった。

そして、延宝8年(1680年)には高松藩主により頓証寺殿と勅額門が再建された。         (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

白峯寺-坂出市青海町2635

▼白峯寺-西行も訪れた崇徳院の旧跡

 

 

坂出市の東、高松市に連なる溶岩台地の五色台白峰中腹に「白峯寺」がある。

 

JR坂出駅から琴参バス「王越線=高屋バス停」で降車し、県道180号線を上り白峯大権現の鳥居を潜って白峯寺へ入った。帰路は「しこくのみち」を使って82番札所「根香寺」と80番札所「讃岐国分寺」との三叉分岐点「十九丁」から讃岐国分寺への「へんろころがし」を使って帰宅した。

徒歩距離は、白峯寺までの往路3.1km、自宅までの復路8.4kmで計11.5kmであった。

 

<概 要><歴史遺産>

▼白峯寺、山門(七棟門しちとうもん)

 

▼本堂

 

▼大師堂、大師堂と本堂

 

▼参道、香川県保存木

 

 

「白峯寺縁起」(1406年)によれば、白峯寺は空海が宝珠を埋め閼伽井(あかい)を掘り、円珍が瀬戸内海に光る霊木を千手観音に刻み、本尊として伽藍を整備したと伝えている。

その後、1164(長寛2)年、保元の乱によって讃岐に配流されていた崇徳院(上皇)が没したことにより、陵墓と、菩提を弔うための頓証寺(とんしょうじ)が現在地に造営された。現在は「頓証寺殿」とよばれ、建物は1680(延宝8)年に高松藩主松平頼重・頼常によって再建されている。

 

▼頓証寺殿

 

 

頓証寺殿の髄身門には、崇徳院の二百五十年忌、1414(応永21)年にあたり将軍足利義持の奏請(そうじょう)により、後小松天皇の手になる「木造頓証寺勅額」(国重文)が掲げられ、勅額門(ちょくがくもん)とも呼ばれている。

 

▼頓証寺殿の髄身門、木造頓証寺勅額

 

白峯陵は、崇徳院の亡骸(なきがら)が荼毘に臥された所に営まれている。

 

▼白峯陵-1

 

▼白峯陵-2

 

 

その左右には源頼朝が源為義・為朝の供養のために建立したと伝える五重塔が立つ。

いずれも鎌倉時代のもので、陵が営まれて遠くない時期に建立されたと考えられている。

 

▼源為義・為朝の供養の五重塔(web引用-水彩画風変換)

 

 

この後この陵墓には、1167(仁安2)年に崇徳院と歌の贈答をしていた西行が都から訪れ、「よしや君昔の玉の床とてもかゝらん後は何にかはせん」と鎮魂の歌を詠んでいる。

頓証寺殿の左、大イチョウの下には西行法師石像がある。

 

▼中河幹子・荒木敏江の歌碑、西行法師石像と鎮魂の歌

 

鎌倉時代以降、崇徳院ゆかりの同地は多くの崇敬を集めた。山内(さんない)にはそれを物語る石像物がいくつもみられる。第二駐車場から門前への途中には、2基の「白峯寺十三重塔」(国重文)がある。東搭は高さ6.04mの花崗岩製で、「弘安元(1278)年」の銘をもつ。また、西搭は高さ5.61mの角礫凝灰岩製で「元亨四(1324)年」の銘がある。この塔の立つ付近は塔ノ峯(とうのみね)と云われ、無数の石塔が埋もれているという。

 

▼白峯寺十三重塔

▼白峯寺十三重塔-東、西

 

 

頓証寺殿の左奥にある「石灯籠」(県文化)は、高さ1.91mの花崗岩製で「文永四(1267年)」の銘をもち、頓証寺型灯籠とよばれ、県内最古級の灯籠である。

 

▼石灯籠

 

 

珍しいものとして、県有形文化財の「白峯寺笠塔婆(かさとうば)(摩尼輪塔)」がある。

白峯寺の七棟門から東へ200mほど、高松参道からの入口に建てられている。

総高約2mの角礫凝灰岩製の方形笠塔婆で、方柱下方には「下乗」を刻み、その上に金剛界大日如来の種子(しゅじ)を刻んだ摩尼輪をもち、「元応三(1321)年」の銘がある。

こうした下乗石は、白峯寺への高松・伊予・丸亀からの各参道入口にあったが、現存しているのはこの1基のみとなっている。また、この塔の隣には高松藩9代藩主松平頼恕(よりひろ)が1836(天保7)年に建立した添碑が立っている。

 

▼白峯寺笠塔婆(摩尼輪塔)と下乗石、添碑

 

 

「客殿」(県文化)も高松藩主松平頼重が延宝年間(1673~80)に建立したもので、金刀比羅宮書院につぐ規模と内容を備えた江戸時代初期の特徴をもった建物である。

 

▼御成門、客殿

 

 

客殿の裏庭には、花崗岩製で高さ約2.15mの「五重塔」(県文化)がある。

鎌倉時代中期の特色を持っており、もとは崇徳院陵か仏堂に奉献されたものあろう。

 

▼五重塔(web引用-水彩画風変換)

 

本堂西の「阿弥陀堂」(県文化)は、1661(万治4)年建立とされる建物で、境内諸堂の中では古く、堂内には阿弥陀三尊像を祀ると共に、阿弥陀小立像1000体が5段に配されている。本尊阿弥陀仏の胎内には松平頼重・頼常の遺髪・歯が納められていると伝えられ、高松藩の保護が厚かった。

 

▼阿弥陀堂、薬師堂

 

▼護摩堂、行者堂

▼鐘楼堂、本坊

 

▼弘法大師御入定一千百五十年記念像、瑜祇搭(ゆぎとう)

 

 

白峯寺の仏像としては、「木造吉祥天(きちじょうてん)立像」(県文化)がある。

一木造(いちぼくづくり)の堅固な造りである所から、平安時代中期(10世紀末~11世紀初め)の地方作とみられる。密教的吉祥天信仰の広がりの中で、安置されたものであろう。なお、金刀比羅宮に所蔵される「紙本著色なよ竹物語絵巻」(国重文)は、もと白峯寺に有ったものである。

 

▼木造吉祥天立像、紙本著色「なよ竹物語絵巻」(web引用ホ-水彩画風変換)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀