Vol.940-2/2 R巻頭-52。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:27<西長尾城跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.940-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:27西長尾城跡

37.西長尾城 <撮影:2012.09.19>

西長尾城(にしながおじょう)は、丸亀平野の南端、讃岐山脈の最前線ともいえる三山(大高見峰、猫山、城山)の西端に位置する城山山頂(標高375.1m)付近に築かれている。初代城主は、細川頼之に協力して白峰合戦で活躍した長尾大隅守元高が応安元年(1368)にその座に就く。以後、代々の長尾大隅守によって200年近く守られてきた。

長尾一族は、この間に鵜足郡南部や那珂郡で勢力を増して岡田、栗隈、炭所に支城を構える。丸亀平野南部を支配することにより、西長尾城は中讃(香川県の中央付近)の処点としての地位を確立する。

戦国時代が終わる頃、土佐の長宗我部元親が讃岐への侵攻を始める。これに羽床(はゆか)氏(羽床城主)が奮戦するが、長宗我部氏との和平に同意した香川氏(天霧城主)が土佐方につき、仲介に入ったことから降伏した。これによって長尾大隅守も長宗我部氏と和議を結ぶ。すぐさま長宗我部氏の重臣だった国吉甚左衛門が入城したので長尾氏はこれに城主の座を譲る。此の事から西長尾城は国吉城とも称される。

天正13年(1585)豊臣秀吉の全国統一に伴う四国征伐に屈し、長宗我部勢は土佐に退却する。

これにより西長尾城(国吉城)の歴史は幕を下ろす。

 

<所在地・外観> 

西長尾城跡-丸亀市綾歌町岡田上・まんのう町長尾

▼西長尾城の鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)、配置図-長尾氏の居城

 

 

ことでん岡田駅から国道438号線を南に約1.2km進み、県道195号線交差点を東に折れて1.2kmほど山道を上がると、綾歌森林公園駐車場の左側に西長尾城跡(城山)への登り口がある。

城山の頂上一帯が「西長尾城跡」である。

 

<概 要>

▼ことでん岡田駅、前方の右が城山-左は猫山

 

▼国道438号線南下し打越池北端の信号交差点を左折(東) 、ニューレオマワールド方面へ進行

 

▼綾歌森林公園-多目的研修棟、ツートンカラーのタンクの様な建物(丸亀市岡田配水池)

 

▼西長尾城跡への登り口、舗装された坂道を進む

▼語らいの広場、第1あずまや

 

▼西長尾城跡への進入路、先に猫山へ登り稜線伝いに城山へ向かう

私は先に猫山へ登り、稜線伝いに城山へ向かうことにした。

 

▼自然豊かな遊歩道、東に見える猫山

 

▼路肩が崩れた遊歩道

 

▼北に見えるニューレオマワールド、北東に顔出す堤山

 

▼近づく猫山、分岐点を左折し猫山へ

 

▼山頂への急坂道、ロープで登るakijii

 

▼猫山山頂に到着-山名表示板を観るakijii 、下山道から見る城山

 

▼分岐点に戻り城山へ向かう、城山への稜線道-1

 

▼城山への稜線道-2 、稜線道から観る城山(山頂が西長尾城の主郭跡)

 

▼城山への稜線道-3 、城山山頂への登り口-西長尾城跡への進入路と合流

 

 

120mほど登ると道がヘアピン状に大きく曲がるが、その屈曲点に城の井戸跡がある。

更に何度も屈曲しながら削平された曲輪を通って登って行くと、城山の頂上に着く。

 

▼城山の登山道

 

▼城山の山頂近し、城山の山頂へ到着したakijii

▼城山の山頂-三角点と山名標識、城山の山頂広場

 

 

360度の眺望が開け、天霧城のあった天霧山も見える。

 

▼城山山頂から北の方面(飯野山、瀬戸大橋)、東の方面(猫山、大高見峰)

 

▼城山山頂から南の方向(満濃池) 、西の方向(左から大麻山、五岳山、天霧山)

 

 

<歴史遺産>  

城跡は山頂の主郭を中心に、西・北・北東・南東・東に連なる尾根を利用して曲輪が構成されている。

特に北に向かって多くの堀切・竪堀が造られ、防禦を厚くしている。

登山路がある南や猫山に通じる東にも、竪堀や堀切が設けられている。

 

▼案内板、山頂の主郭(web引用-水彩画風変換)

 

▼曲輪(web引用-水彩画風変換)

 

▼竪堀(web引用-水彩画風変換)

 

▼堀切、主郭跡(三角の山が猫山、奥は大高見峰)(web引用-水彩画風変換)

 

 

長宗我部元親は西長尾城を拠点に讃岐侵攻を進めたので、遺構としての残りも良いので、戦国時代の山城の典型として一見の価値がある遺構である。

 

<関連遺産>

琴電琴平線の岡田駅から約2.5km東北の国道32号線の北側に矢延平六(やのべへいろく)築造と伝える「仁池(にいけ)」がある。

 

▼仁池-1(奥は左から大高見峰、猫山、城山)

 

 

周囲約4km、貯水量約150万m3、受益面積は丸亀市綾歌町栗熊から坂出市川津町に及ぶ403haで、県内でも7番目の大池である。1648(慶安元)年6月から翌年2月までに延べ6万8398人を要して築造されたと「仁池由緒記」に記録がある。

 

▼仁池-2

 

 

讃岐には溜池が多いが、規模の大きさと古文書によると確証の両面から価値の高い池の1つである。

 

▼仁池-3(奥は飯野山)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀