Vol.939-3/4に続けてご覧ください。
<36.快天山古墳> <撮影:2017.08.29>
一般的な前方後円墳の全長が40m前後であるのに対し、快天山古墳(かいてんやまこふん)は98.8mと圧倒的に大きく、前期古墳としては、四国最大の規模を誇り、瀬戸内地域全体でも7番目の大きさになる。これは、水準の高い測量や土木技術を取り入れることにより造り得たものである。
古墳の表面は、明石の五色塚古墳に見られるような段築構造で斜面部には葺石(ふきいし)が葺かれ、テラス部には円筒埴輪が並べられている。埋葬施設は後円部に3か所あり、棺には国内最古の、石を刳り抜いて作った石棺が採用されている。棺の内外からは、銅鏡や鉄製品など多くの副葬品が見つかっている。刳抜(くりぬき)式石棺は、後に他の地域の首長墓にも採用されるようになる。
これらのことから、快天山古墳の被葬者は中央にもつながる権力者で、東四国もしくは四国全体を治めていたことが推測される。 (丸亀市HPより)
<所在地・外観>
▼快天山古墳-丸亀市綾歌町栗熊字若狭
▼快天山古墳-日本最古の刳抜式石棺
住吉神社前交差点を北西に入った尾根上に「快天山古墳」(国史跡)がある。
私は、陣の丸古墳から山間の尾根道を約3km南下して訪ねた。
<概 要>
▼陣の丸古墳から快天山古墳へ向かう、坂を下る-1
▼竜王山散歩道:登山口、坂を下る-2(正面は竜王山)
▼坂を下る-3 、眼下は綾歌町
▼坂を下る-4 、右に飯野山
▼坂を下る-5
▼坂を下る-6
▼次の交点を左折、左折し快天山古墳へ坂を上る
▼坂を上る-1
▼坂を上る-2(右折) 、坂を上る-3
▼坂を上る-4、丸亀市営高丸墓地
▼快天山古墳へ
▼快天山古墳の案内板が見えてきた
<歴史遺産>
主軸をほぼ南北方向に向けた前方後円墳で、北側に前方部(長さ35.6m)、南側に後円部(63.5~68m)が有り、墳丘の全長は98.8mの規模を持つ。築造時期は古墳時代前期後半(4世紀初め)と考えられ、この時期の前方後円墳としては四国最大である。
▼快天山古墳:駐車場、案内板とパンフ箱(後に紹介)
▼快天山古墳:入口、古墳:前方部
▼快天山古墳:前方部前端
▼快天山古墳:後円墳1(丸亀市が調査中)
▼快天山古墳:後円墳2(丸亀市が調査中)
▼快天山古墳:後円墳3(丸亀市が調査中)
主体部の埋葬施設は3つあり、1・2号は竪穴式石槨、3号は粘土槨で、棺はいずれも刳抜式割竹形石棺である。2つに割れているのが1号石棺、蓋の一部が見えているのが2号石棺、3号石棺は土に埋まっている。
▼快天山古墳の復元イメージと墳頂部の石棺配置、後円墳:第1号石棺の説明板
▼快天山古墳-後円墳:第2号石棺、第3号石棺説明板
▼後円墳から前方部を見る
<現地のパンフより>
▼快天山古墳パンフ-史跡・快天山古墳表紙、立地・配置・規模
▼快天山古墳パンフ-構造・構築、外表施設
▼快天山古墳パンフ-円筒埴輪・壺形埴輪、埋葬施設1
前方部は3段、後円部は3段かそれ以上に造られ、各段の斜面には葺石が施され、各段の平坦部と墳頂には、3~4m間隔で円筒埴輪が立て並べられており、壺形埴輪も見つかっている。
▼快天山古墳パンフ-埋葬施設2、副葬品・その他
副葬品としては後漢時代の獣文方格規矩四神鏡を始め、石釧・勾玉などの装飾具、鉄鏃・鉄刃片・土師壺などが出土している。
石材はいずれも鷲ノ山(高松市国分寺町)産の角閃凝灰岩が使われている。
割竹形木棺を模した刳抜式石棺は国内最古である。快天山古墳で使われ始め、後に香川県は元より岡山や大阪でも使われるようになる。讃岐によい石材と優れた石工がいた事に依るものであろう。
▼鷲ノ山、石舟の石材店
快天山古墳は、中央の古墳文化に大きな影響を与え、四国・瀬戸内全域から見ても、貴重な古墳と言える。
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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