Vol.938-4/4 R巻頭-50。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:25<嶋田寺・法勲寺跡他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.938-3/4に続けてご覧ください。

 

34.法勲寺讃留霊王神社 <撮影:2017.08.25>

法勲寺(ほうくんじ)跡は、寺域も構造も良く解っていないが、出土瓦には、素縁(そえん)八葉素弁蓮華文軒丸瓦や鋸歯(きょし)文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦など、白鳳期のものが有る。特に鋸歯文縁六葉単弁蓮華文軒丸瓦は、花弁に3本の凸線が入れられ、弁間には菱(ひし)の実のような飾りが配されている。法勲寺跡でしか見られない独特のもので、創建期の瓦かと考えられる。県内に数多くある白鳳期の寺の中でも、異彩を放つものである。

 

讃王(さんのう)は、昔瀬戸内海にいた悪魚を退治した人物。讃留霊王(さるれお)とも。

古事記伝などでは讃王を景行天皇の御子神櫛王としているが、古事記には武貝児王、日本書紀には日本武尊の御子である霊子(武殻王)としている。景行天皇の御世、瀬戸内海では悪魚が人々を困らせていた。讃王はこのことを聞きつけたくさんの船をつれて退治に行った。ところが、一人の兵士が悪魚に飲み込まれてしまった。その兵士が悪魚の腹の中で刀を抜いて暴れ出し悪魚は苦しくなって死んでしまった。以後、讃岐の漁師は自由に魚をとってもよくなった。丸亀市飯山町には、讃王を祭った讃王神社および讃留霊王神社が存在する。また弘憲寺には讃王の肖像画が、綾川町にある北条池の付近には讃留霊王の墓がある。  (Wikipedia引用)

 

<所在地・外観>

法勲寺跡と讃留霊王神社-丸亀市飯山町下法軍寺

▼法勲寺跡、讃留霊王神社-日本武尊の子ゆかりの寺社

 

 

県立飯山高校の南、島田交差点の西南約1kmの所に白鳳期の寺院「法勲寺跡」がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼飯山高校

 

▼島田交差点、県道22号線を西に進み左折

 

▼小道を南下、杜が見えてきた

 

▼法勲寺跡へ入る、法勲寺跡の全景

 

▼法勲寺跡の説明板、讃留霊王神社御旅所由緒之碑

▼法勲寺跡の礎石保存の記と礎石、礎石保存の記

 

▼法勲寺跡の礎石群、五重塔の心礎石-1

 

▼法勲寺跡の五重塔の心礎石-2

 

▼法勲寺跡の讃留霊王神社御旅所

 

▼飛鳥時代の素弁八葉蓮華文軒丸瓦、六葉単弁蓮華文軒丸瓦(ともに奈良県の出土品)(web引用-水彩画風変換)

 

 

法勲寺は日本武尊の子武穀王(たけかいこおう)(讃留霊王)を弔うため後胤(こういん)の綾(あや)氏が建立したと伝えられている。

講堂跡に比定される付近には、現在浄土真宗法勲寺(1948年創建)が立ち、礎石などが残る。

 

▼法勲寺の全景、寺標と本堂

 

▼法勲寺の礎石群(石の塔は鎌倉時代頃のものらしい)、法勲寺跡石塔の碑と地蔵堂

 

 

<関連遺産>

法勲寺跡の西側を流れる大窪池用水の南西丘陵上に「讃留霊王神社」がある。

 

▼讃留霊王伝説パンフ-1(web引用)

 

▼讃留霊王伝説パンフ-2(web引用)

 

 

日本武尊の子で讃岐綾氏の祖の武穀王を祀る。

讃留霊王神社は円墳(径約20m)の上に建てられている。

 

▼讃留霊王神社の寺標と鳥居、拝殿

 

▼讃留霊王神社の拝殿内の絵画、拝殿内の絵画の構図で一枚

 

▼讃留霊王神社の説明板、御由緒碑

▼讃留霊王神社の社殿-1

 

▼讃留霊王神社-社殿-2

 

▼讃留霊王神社の本殿、本殿の裏面扉

 

▼讃留霊王神社の本殿裏の前方後円墳-1

 

▼讃留霊王神社の矢塚伝説、讃王大明神・王妃霊地

 

▼讃留霊王神社の北参道-1

 

▼讃留霊王神社の北参道-2

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀