Vol.938-3/4 R巻頭-50。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:25<嶋田寺・法勲寺跡他1> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.938-2/4に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:25<嶋田寺・法勲寺跡と讃留霊王神社

33.嶋田寺 <撮影:2017.08.25>

元は法相宗と旧記にみえる。八葉山真言院浄土寺と称した。のち、所の名をよんで嶋田寺(しまだじ)という。

「延暦13年(西暦794年)正月8日、弘法大師法勲寺を玉井村讃留霊王塚上にうつし、嶋田寺を輸伽場として滞り、讃留霊王を追薦す」とある。その後、法勲寺廃頽の時、本尊霊宝を当寺に納め讃留霊王の神霊を勤修す。

故に世人綾氏の氏寺となす。

その昔、「当寺に過去帳存すること久し、当国の及第せし人、及ぴ諸士家系の分明ならざるは、この過去帳をもって糺正す」この故に、今も古き事をよく知りたるを嶋田寺の過去帳という。  (四国三十三観音霊場会HP)

 

<所在地・外観>

▼嶋田寺-丸亀市飯山町下法軍寺538

嶋田寺-法勲寺ゆかりの寺

 

県立飯山高校の南、飯山町島田交差点の北東に「嶋田寺」(高野山真言宗)がある。

 

<概 要> 

▼飯山高校、嶋田寺へ向かう-1

 

▼嶋田寺へ向かう-2

 

▼嶋田寺が見えた、白塀の嶋田寺

 

 

八葉山真言院浄土寺と称したが後、土地の名を採り嶋田寺となるが、開基は不詳である。

弘仁年間(810~824)に弘法大師が滞在したと云う。法勲寺(ほうくんじ)が衰退した時、本尊・宝物を嶋田寺に移し、讃留霊王(さるれおう)の神霊も嶋田寺で勧修した。それまで法勲寺が持っていた綾(あや)氏の先祖を祀る役目が、嶋田寺に受け継がれた。

 

<歴史遺産>

▼嶋田寺-山門と寺標、山門と境内

 

▼嶋田寺-鐘楼、本堂

 

▼嶋田寺-由来、本堂の扁額

 

▼嶋田寺-境内

 

▼嶋田寺-楽寿観音

 

▼嶋田寺-弁財天、宝篋印塔

 

▼嶋田寺-宇賀神、弘法大師千百年御忌倍増法楽也の塔

 

▼嶋田寺-阿弥陀三尊、地蔵菩薩

 

▼嶋田寺-境内と飯野山

 

 

その後、嶋田寺15世良純(りょうじゅん)上人に帰依した生駒一正は、悪魚退治をして讃岐に留まったという日本武尊の子、讃留霊王を信奉し、その由緒の寺である法勲寺を、高松に移して弘憲寺(こうけんじ)とし、良純を弘憲寺の開祖とした。

 

<関連遺産>

嶋田寺に法勲寺から伝来していた仏像(不動明王・地蔵菩薩・毘沙門天など)や仏具も弘憲寺に移され、嶋田寺は弘憲寺の末寺と成った。

 

▼弘憲寺-外観、山門

 

▼弘憲寺-平和の塔-五重塔、弁天堂

 

▼弘憲寺-讃岐一国八十八個所第一番霊場弘憲寺、境内

 

▼弘憲寺-木造不動明王立像、木造地蔵菩薩立像(web引用-水彩画風変換)

 

▼弘憲寺-金襽波引車紋散七条袈裟、灑水器・塗香器(web引用-水彩画風変換)

 

 

嶋田寺の境内には怪力伝説をもつ宥遍(ゆうへん)上人ゆかりの「一荷(いっか)かつぎの門」や上人の墓などが残る。

 

▼宥遍上人一荷かつぎの門、上人の墓

 

 

<みんなの県政 THE かがわより「読みがたり 香川のむかし話」より>

ずーっと昔、飯野山(讃岐富士)の近くにある嶋田寺(丸亀市飯山町)に「ゆうへんさん」という力の強い和尚さんがおったんや。

ある時、ゆうへんさんが高松の弘憲寺に用があって来とった。用が済んだけん、いのう(帰ろうと)しとったら、弘憲寺の和尚さんが宥遍さんの力を試そうとしたんか、「うちの大門をあげましょう。どうぞおもちくだされ」いうたやと。

宥遍さんは、ものすご喜んでその大門を軽げに肩に担いで帰って行った。弘憲寺の和尚さんは、なしなった(無くなった)大門の跡に呆然とつったって、宥遍さんの後ろ姿を見送ったやと。

宥遍さんは、額坂峠まできて、ちょっと休もうと大門を降し、大きな松の木を折り曲げて腰かけとった。

ほんだら馬子が来て、馬の手綱を宥遍さんの腰掛けた松に括り付けようとけん、「これ、この木に繋ぐとわしが折り曲げて座っとるきん、立ったら馬が吊り上るぞ」いうたんやと。馬子は、「和尚さん、てんご(冗談)いうたらいかんわ。そんなほっこげな(馬鹿げた)ことあるかいな」いうて馬をその松に括り付けけた。「そろそろ帰るわ」いうて宥遍さんがひょいと腰をあげたとたん、馬は宙吊りになってしもうた。馬子は手をついて「もう、いらんこといわんけんけに、こらえて(許して)いた」と頼んで、馬をおろしてもろたんやと。

宥遍さんが担いできた大門は「一荷担ぎの門」いうて、今でも嶋田寺に残っとるんやて。

弘憲寺に行くときについていった鉄の杖や、碁を打って帰った碁石の跡が深こうひっこん(凹ん)だ碁盤や力試しした大きな石も弘憲寺には残っとるんやと。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

引き続き、Vol.938-4/4をご覧ください。