Vol.937-2/2 R巻頭-49。歴史(観て歩き)レポ-中讃編:24<三谷寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.937-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-中讃:24<三谷寺>

32.三谷寺 <撮影:2017.07.01>

寳珠山(ほうじゅざん)・三谷寺(みたにじ)は真言宗御室派で、讃岐三十三観音霊場二十六番札所で、当寺は天平二年(730)、聖武天皇の勅願により、行基菩薩の創建せられた霊場である。本尊十一面観世音菩薩は、行基菩薩の御作にして、其の御頭の中には、光明皇后の守本尊十一面観世音菩薩が納められている霊佛である。天皇は当寺を勅願所とし、八葉山施無畏寺と名付けられた。後に空海が当寺に御巡錫のみぎり荒廃せる当寺を再建弥勒浄土に擬して四十九坊を建立、奥の院の厳窟中に薬師如来の石像を安置し院号を弥勒院(みろくいん)と名付けられた。

 

鎌倉時代、四條天皇の御母藻壁門院(へきもんいん)、当寺に帰依せられ二位尼「藤原政子」をして興隆なさめ、田畑四十九町を寄進せられ寺号を浄興院長谷寺(諸国長谷寺の一つ)改稱す。後宇多法皇は深く叡慮を当寺の興隆に注がれ、田園三十六町を賜い影向山無量寿院三谷寺と改稱し給うた。天正年間長宗我部の兵火に遭い、諸堂悉く烏有に帰したが、天正十五年(1587)、生駒一正、当寺に帰依し、寺領六十石、山林三町四方を寄進し、高松藩祖「松平源英公」は、当寺に特別の庇護を加えられ再建されたが、寛政年間、再び火災に遭い焼失した。当時の住職「法純和尚」之を再建以来今日に至っている。

 

境内は幽寂にして浮世の俗塵を離れたる霊地にして、一歩境内に入れば心身とも洗われる思いに浸ることが出来る。また本堂前の西国霊場一番札所の石佛を初として奥の院に至る間に三十三ケ所の石佛あり約一時間にて巡拝することが出来る。

 

<所在地・外観>

三谷寺-丸亀市飯山町東坂元3183

▼三谷寺-八葉山を背にする広大な寺域

 

飯山町から坂出市府中町に抜ける県道18号線の額坂(がくざか)峠の手前(丸亀市コミバス停:三谷団地の少し先)を、新池に沿って北へ600mほど入った所に「三谷寺」がある。

 

<概 要>

▼県道18号線の北側に三谷寺の案内板、左折して三谷寺へ

 

▼新池に沿って北進、新池

 

▼三谷寺へ向かう-1

 

▼三谷寺へ向かう-2

 

▼三谷寺へ向かう-3、三谷寺の仁王門が見えてきた

 

 

<歴史遺産>  

天平年間(729~749年)、聖武天皇勅願による行基の創建と伝えるが、浄土宗の開祖法然上人の弟子長西(ちょうせい)開祖との説もある。かつては高松市三谷町にあった三谷寺と区別するため西三谷寺と呼ばれた。境内には八葉山(はちようさん)を背に、本堂・御影堂・護摩堂・閻魔堂・地蔵堂・多宝塔・山門などが立つ。

 

▼仁王門、境内案内図

 

▼阿形仁王像、吽形仁王像

 

▼持国天像、毘沙門天像

 

▼参道、参道石段

 

▼中門と寺標、鐘楼

 

▼由緒、境内

 

▼本堂、弘法大師堂

▼地蔵堂、護摩堂

 

▼多宝塔、鎮守社

 

▼供養塔、十王堂

 

▼経蔵、納経所

 

 

境内から八葉山に掛けて、1814(文化11)年に写された西国三十三所観音霊場の石仏が配されている。

 

▼ミニ西国石仏巡り1番、3番

 

▼ミニ西国石仏巡り-1、県道18号線へのアクセス道

 

▼ミニ西国石仏巡り-2(護摩岳へ登る)、石仏巡り5番

 

▼ミニ西国石仏巡り-3(護摩岳へ登る)、石仏巡り7番

▼ミニ西国石仏巡り-4(護摩岳へ登る)、石仏巡り8番

 

▼ミニ西国石仏巡り-5(護摩岳へ登る)、標高111mの地点

 

▼眺望-飯野山と高松自動車道、坂出方向-郷師山・常山・金山

 

▼ミニ西国石仏巡り-6(護摩岳へ登る)

 

▼ミニ西国石仏巡り10番:護摩岳の頂上-標高126mの地点

▼護摩岳の頂上から見る-三谷寺・奥に楠見池も見える、宝珠ケ山峰の11番~13番石仏

 

▼ミニ西国石仏巡り-護摩岳から境内へ戻る

 

▼ミニ西国石仏巡り-護摩岳から境内に戻った、石仏巡り33番(結願石仏)

 

 

かつて額坂の頂上に山門があり、「八葉山」の額が掛かっていた所から、当地を「額」と称するようになったと云う。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀