Vol.930-1/2に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:17<天霧城跡>
<25.天霧城跡> <撮影:2012.10.16>
天霧城(あまぎりじょう)は丸亀平野の西端にある天霧山(標高382m)の山頂に位置している。最高所に本丸があり、東に向かって二の丸・三の丸などが配される梯郭式の山城である。別名:雨霧城で、讃岐香川氏累代の有事の際の詰城で、平時の居館は多度津町の本台山城東麓にあったとされる。 (Wikipediaより)
天霧城は貞治年間(1362年~1368年)香川氏によって築城された。
香川氏は守護の細川氏の四天王の一人として西讃岐一帯を領していたが長宗我部元親の侵攻により開城する。
その後、羽柴秀吉の四国平定に長宗我部氏が降伏すると天霧城も開城し以後廃城となる。
<所在地・外観>
▼天霧城-善通寺市吉原町・碑殿町、仲多度郡多度津町、三豊市三野町
▼天霧城砦群、天霧城-鳥瞰図(出典元:余湖くんのHP)-中世山城の名城
金倉寺から国道11号線を鳥坂峠へ向かう途中の右手、山腹を砕石事業で抉(えぐ)られている天霧山には、南端の山頂部から東・北東、北方の尾根や弥谷山との鞍部に至る稜線部に郭群を構築した「天霧城跡」(国史跡)がある。
▼天霧山・弥谷山、天霧山
<概 要>
天霧城は、香川氏の西讃監視と最後に立て籠る詰(つめ)の城で、要害の地形を巧みに利用した本県を代表する中世山城である。香川氏は、14世紀後半に讃岐の守護細川氏の被官(ひかん)として入部して西讃の守護代となり、15世紀末には讃岐13郡のうち西讃6郡を支配した。戦国時代の1563(永禄6)年、十河(そごう)・安富(やすとみ)・寒川(さんかわ)・香西(こうざい)氏らの東讃(とうさん)武士を従えた阿波(現、徳島県)の三好義堅(よしたか)の攻撃では、天霧城籠城戦を展開し、和議を結んで退城した。
1578(天正6)年、土佐(現、高知県)の長宗我部元親(もとちか)の侵攻に際しては、西讃の諸城が落ち、降伏勧告を受け入れて元親の2男を養子に迎え、1585年、羽柴秀吉の四国征伐で元親が降伏すると、城主父子や家臣団の一部が土佐に移住し、城は荒廃の途を辿るに至った。
私は天霧山山頂まで多度津町白方側のJR海岸寺駅から遍路道を登って行った。
<歴史遺産>
▼天霧城跡地図、天霧城跡案内図(web引用)
▼天霧城跡の案内板、登山口への進入路
▼麓の虚空蔵寺境内、登山口
▼遍路道
▼遍路道を登るakijii、石地蔵の出迎え
▼天霧山と弥谷山のコル近し、コルの指導標
▼天霧山山頂へ向かう
▼隠砦跡の標示、何も無い隠砦跡
▼顔を出した天霧山、急坂の登る
▼犬返しの険、登るakijii
山頂に近づくとにわかに急峻となる。
▼保存会の標識、天霧山山頂(本丸跡)近し
▼天霧山山頂(本丸跡)に到着、天霧城本丸跡(物見台)
空堀跡から南に進むと、三の丸跡である。続いて二の丸跡・本丸(主郭)跡がある。
山頂南端の本丸跡の南側下方は急坂となり、最高所の本丸から二の丸、三の丸が順次寄りかかって連接する梯郭(ていかく)式の縄張りである。
▼三の丸跡、二の丸跡
▼山頂の南方向、北方向
▼山頂の東方向、西方向
空堀から北の外郭方面は危険で、東方尾根の郭群は砕石事業でほぼ消滅してしまった。
天霧山から弥谷山山頂へ立ち寄り、登り口の白方へ下山した。
▼本丸跡を後にしてコルへ引き返すakijii 、左方向に五岳連山
▼稜線コルに戻る、弥谷越えの石地蔵
▼弥谷山への送電線巡視路へ、弥谷山・黒戸山方向の標識
▼弥谷山方向の標識、踏跡稜線-1
▼踏跡稜線-2 、弥谷山山頂近し
▼弥谷山山頂に到着(標高381.5m)、山頂のakijii
▼弥谷山山頂の北方面、南方面
▼弥谷山山頂の東方面、西方面
▼コルへ戻り白方へ下山、観音堂川の砂防堤
▼眼下に奥白方の集落が見えて来た、遍路道を進む
▼登山口へ帰還、JR海岸寺駅へ向かう
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀
























































