Vol.927-1/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-中讃編:14<木熊野神社・大麻神社>
<21.木熊野神社> <撮影:2017.07.29>
木熊野(きくまの)と名づけられた神社は瓦谷、生野の原、西岡にもありますが、すべてここ中村の木熊野神社からの分霊といわれています。ここは、中村町の産土神(うぶすながみ)で、十二社権現または梛(なぎ)の宮と呼ばれていました。木熊野は紀伊熊野の意味で、もともとは熊野権現であったのを、明治の神仏分離令によって木熊野と改称、登録されたのです。
木熊野神社の秋祭りでは、昔ながらのしきたりにのっとった珍しい神事が行われています。
祭の7日前の「シオカワ神事」は、頭屋(とうや)の家に神主が来て御幣(ごへい)を切り、餅をつき、甘酒を神社まで持っていきます。神社では社前の湧き水に神主や頭屋の主人などが素裸で入り身を清め、祭具を洗います。祭りの前日には、頭屋の家に御神屋(ごじんや)を設け神社からの神輿を迎えます。
神輿は祭り当日に頭屋を出てお旅所(たびしょ)に向かいます。ご神体は、オンユルワと呼ばれる小桶の中に入れた玄米で、お旅所で神主の手によって神輿の中に納められます。
ここで献饌(けんせん)の儀や獅子舞の奉納があり、やがて神輿は本社まで戻り神事が終わります。
玄米をご神体にするなど、この祭りは農耕儀礼のひとつだったのでしょう、先祖の暮らしぶりが偲ばれます。古いしきたりを守り続ける伝承会のご苦労のおかげで、県の無形民俗文化財に指定されています。
(善通寺市HPより)
<所在地・外観>
▼木熊野神社-善通寺市中村町138
▼木熊野神社-病魔退散の梛(なぎ)の宮
西日本農業研究センター四国研究拠点(仙遊地区)の農場東側の県道212号線を多度津方面(北西)に約1km進むと、左手に中村町の「木熊野神社」(旧十二所権現)がある。
<概 要><歴史遺産>
▼木熊野神社:遠景、鳥居
▼木熊野神社:参道の常夜燈と注連柱、石灯篭
▼木熊野神社:由緒、鳥居と社号標
▼木熊野神社:境内、拝殿
▼木熊野神社:本殿、石仏群
▼木熊野神社-境内社:恵比須宮、厳島神社
▼木熊野神社-境内社:粟嶋宮、境内
「木」は紀伊(現、和歌山県)を意味し、社殿は紀伊熊野の神木のナギ(マキ科の常緑樹)の「社叢」(県天然)に覆われ、「凪(無風・平穏)」に通じる事から、「病魔退散(結核治癒)の梛の宮」の別称で知られる。
▼木熊野神社:梛の社叢の説明板、社叢-1
▼木熊野神社:社叢-2
祭神の内の主神は、紀伊の熊野速玉大社(和歌山県新宮市)で熊野結大神として祀られている伊邪那美命などである。1056(天喜4)年の善通寺の起請文(神仏に誓う文書)の中で、熊野本宮(現、熊野本宮大社<和歌山県田辺市>)の本殿(証誠殿)や祭神を意味する証成大行事に誓っており、熊野信仰が当地に根づいていた事が解る。幣殿には1858(安政5)年奉納の大きな算額が掲げられており、地方での和算熱が伺える。
因みに、算額とは江戸時代の日本で、額や絵馬に和算の問題や解法を記して、神社や仏閣に奉納したものである。
平面幾何に関する算額(特に円の中に多数の円や別図形の中に多数の球を入れるなど接点を持つもの)が多い。また幣殿は、神社で参詣者が幣帛(へいはく)をささげる社殿のことで、拝殿と本殿との中間にある。
例祭(10月第1土・日曜日)の「木熊野神社特殊神事」(県民俗)は、頭屋宅を御旅所とする事や、神体が玄米で有る事など、古い農耕儀礼を暗示している。
▼木熊野神社特殊神事-1(web引用)
▼木熊野神社特殊神事-2(web引用)
県道212号線の西側に弘法大師御産土神「椰之宮」の若宮神社がある。
▼若宮神社のイブキ、イブキの説明板
▼若宮神社
<関連遺産>
神社前の県道212号線を東へ横切ると、居館跡の「中村城跡」がある。
田の中に景政神社が有り、社殿の背後と側面、南方に土塁が残り、堀は用水路に利用されている。
▼中村城跡へ向かう、中村城跡が見えた
城主は仲行司貞房とされ、那珂郡の郡司は仲氏を称した事から、在庁官人の家筋の領主とみられる。平氏が屋島(現、高松市)から福原(現、兵庫県神戸市)に戻った際に、平氏軍を離脱し、都の源氏軍に参陣してきた讃岐武士に仲行司貞房の名がある。
▼中村城跡-1、中村城跡の説明板
香川氏の祖(鎌倉権五郎景政)を屋敷神としている事から、室町時代には香川氏一族の居城と成ったようである。近隣には行路(ぎょうじ)という地名が残っている。
▼景政神社
▼社殿と土塁、社殿側面の土塁
▼堀(用水路) 、社殿背後の土塁
▼南方の土塁
▼中村城跡2
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
引き続き、Vol.927-3/3をご覧ください。









































