Vol.912-2/2 R巻頭-24。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:24<始覚寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.912-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:24<始

 

32.始覚寺 <撮影:2017.07.08>

奈良時代の終わりごろから平安時代に創建されたと考えられる始覚寺(しかくじ)は、現在の始覚寺とその南西部一帯が寺域であったと思われる。この始覚寺跡地は北方へ高くなった南向き斜面で、ここから三木町の平地部のほぼ全景を見ることができる。まさに聖地としては最高の場所といえる。

現在の始覚寺本堂の前に、塔の礎石(幅171cm、奥行き125cm、高さ55cmの花崗岩、中央部に直径80cmと38cmの二重の穴がある)が残っている。白鳳時代から奈良時代に建立された寺院の跡は、県下に約30か所あるといわれるが、その中でも礎石をもつ数少ない遺跡の1つである。      (三木町HPより)                                        

 

<所在地・外観>

始覚寺-木田郡三木町井上662-1

▼始覚寺-境内に創建時の心礎石、官寺的色彩の強い寺

 

ことでん学園通り駅から北上し、平井小学校の東側を通って北へ向かうと、二ツ池の堤に出る。

 

▼学園通りを北進

 

▼新川を西に渡る、県道38号線を北上-1

 

▼平井小学校前を通過、県道38号線を北上-2:新川(高野橋)を再び北へ渡る

 

▼県道38号線を北上-3

 

 

池の手前で西に折れて進むと、南に「始覚寺」(単立)の裏側に着く。

 

<概 要><歴史遺産>

始覚寺は、戦国時代に兵火に焼かれ、1666(寛文6)年に再興されたと伝える。

 

▼二ツ池の堤、二ツ池改修記念碑

 

▼右側に「あけぼの荘」、突当りに「平井幼稚園井上分園」

 

▼始覚寺の裏側、始覚寺の横道

 

▼始覚寺-正面:南面 、三木町の寺の説明

 

▼三木町の文化財の説明、始覚寺-門前

 

▼始覚寺-境内の正面、本堂

▼始覚寺-本堂横の宮

 

 

正面(南側)に出て境内に入ると、寺の創建時の礎石(そせき)が五重塔の下に残っている。

因みに礎石とは、いしずえともいい主として社寺・殿舎などの建物の壁または柱下の石をいう。

 

▼始覚寺-境内、塔の心礎石の上に乗る五重塔

 

 

この礎石は、現在の境内の南西一帯に広がる始覚寺跡から移されたもので、礎石は2重の穴が穿(うが)たれており、小さいほうは舎利孔(しゃりこう)であったと考えられる。

因みに舎利孔とは、釈迦の遺骨を納める円形の穴である。

 

▼始覚寺-塔の心礎石

 

 

県内では10例ある塔心礎(とうしんそ)を残す寺跡の1つである。

塔心礎とはお寺などに建っている三重搭とか五重塔などの搭の中心に据える大きな石で作った礎石のことである。

 

▼始覚寺-門前の左側、右側

 

 

<関連遺産>

出土する瓦は、軒平瓦では藤原宮式の偏向唐草文が、軒丸瓦では讃岐国分寺・国分尼寺と同じ十六葉単弁蓮華文が見られ、国分寺とも関係の深い官寺的色彩の強い寺で有った事が伺える。

因みに、軒平瓦とは軒先などの屋根の縁端を飾るために平瓦の端に横長でそりのある飾板をつけたものをいい、軒丸瓦は軒先など屋根の縁端を飾るために丸瓦の端に瓦当と呼ばれる円形の飾板をつけたものである。

 

▼四国80番札所讃岐国分寺

 

▼国分尼寺-法華寺

 

▼讃岐国分寺跡資料館

 

 

始覚寺の門前から南方を見ると、古代南海道に比定(ひてい)される長尾街道方面が見渡せる良い場所である。

 

▼始覚寺-長尾街道の方向

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀