Vol.911-2/2 R巻頭-23。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:23<高岡城跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.911-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:23<高岡城跡>

 

31.高岡城跡 <撮影:2017.07.08>

高岡城の築城年代は定かではないが南北朝時代に三木紀伊守高長(たかなが)によって築かれたと云われる。

平木尾池の西にあるこんもりと木が茂っている所が城址で、南側に土塁が有りその上に石祠があって、土塁は中央に開口部が残る。北側は畑となっていてその中に蓋がして有るのが井戸跡と思われる。

 

<所在地・外観>

高岡城跡-木田郡三木町平木字南山田

▼高岡城跡-三木町を代表する城跡、三木氏から安富氏へ

 

<関連遺産>

琴電長尾線の平木駅と学園通り駅の間に、新川(しんかわ)に架かる鉄橋がある。

この石組み橋桁の鉄橋は、香川県の近代化遺産の1つとされている。

 

▼新川に架かる石組み橋桁の鉄橋、石組み橋桁の鉄橋(ことでん)-1

 

▼石組み橋桁の鉄橋(ことでん)-2

▼石組み橋桁の鉄橋(ことでん)-3

 

 

<概 要>

ことでん学園通り駅で降り、北へ進むと左に県立三木高校が有り、右方向に平木尾池(おいけ)の堤が見えてくる。

 

▼学園通りを北進

 

▼左側に県立三木高校、右側に平尾尾池が見えてきた

 

▼平木尾池のソーラーパネル敷設工事の状況、平木尾池(2016年3月当時)

 

▼白山と平木尾池(奥にソーラーパネル) 、白山と平木尾池(2014年7月当時)

 

平木尾池の堤沿いに坂を上り切ると、道の西側にこんもりとした木に囲まれた一角がある。

ここが「高岡城跡」である。

 

<歴史遺産>

現状では、南側に土塁がありその上に石祠があって、土塁は中央に開口部が残る。

 

▼左前方に(南側)高岡城跡、北側から見る高岡城跡

 

 

南北朝時代に三木紀伊守高長によって築かれたと云われているが、三木氏は三木郡八郷三十五ヶ村の地頭で田中城主も兼ねていた。安富盛方(もりかた)が東讃守護代として讃岐にくると、三木高長から城と三木郡を譲られ、高岡城に入った。城跡からは古瓦(こがわら)・刀剣類・室町時代末期の備前焼・白磁などが出土したと言われている。安富氏は長禄年間(1457~1460)に雨滝(あめたき)城(さぬき市)に移るが、その後も高岡城と三木郡は安富氏の支配に属した。しかし、1541(天正10)年には安富氏の東讃守護代としての権限が阿波(現、徳島県)の三好氏に奪われているので、三木郡の支配権も三好氏の下に入ったものと考えられる。

 

▼北側、中心部は鬱蒼した草場-1

 

▼中心部は鬱蒼した草場-2

 

▼土塁-1、土塁上にある石祠

 

▼土塁-2

 

 

1564(天正11)年4月の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、羽柴秀吉は仙石秀久(せんごくひでひさ)に四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を牽制するよう命じ、仙石秀久が引田(現、東かがわ市)に来るが、この引田の戦いのときに香西氏が十河城の押さえとして平木城に入った。同年5月には長宗我部元親本人も平木城に入り、十河城攻めを指揮している(南海治乱記)。この平木城はおそらく高岡城と考えられている。因みに、『南海治乱記』は阿波三好氏を中心とした軍記である。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀