Vol.908-2/2 R巻頭-20。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:20<多和神社> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.908-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:20<多和神社>

 

28.多和神社 <撮影:2015.10.03 and 2017.05.19>

創建時期は不明である。志度寺に隣接しており、889年(寛平元年)、八幡神を祀り「多和(たわ)八幡宮」と改称していたと云う。1479年(文明11年)に志度寺と共に焼失する。

1671年(寛文11年)、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺が復興されると、多和神社も復興される。

この時、現在地に移転する(1623年:元和9年現在地に遷座の説もあり)。幕末期の宮司・松岡調(みつぎ)は国学者としても知られ、後に金刀比羅宮の宮司も務めた。彼が研究のために集めた典籍や事物が社内の「多和文庫(香木舎(かきのや))」として保管されている。                              (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

多和神社-さぬき市志度121

▼多和神社-志度卿の郷社、大太鼓が勢揃い賑やかな祭り

 

平賀源内旧邸から讃岐街道を西北へ230m行くと、交点の左側に多和神社の石柱がある。

その交点を左折して琴電志度線の踏切を渡り、国道11号線を南側に横断するとJR高徳線の踏切がある。JR高徳線の踏切を渡り、鳥居を潜って、緩やかな曲線を描く石段を、登り切った所に「多和神社」がある。

 

▼石柱、JR高徳線の踏切を越える

 

 

<概 要><歴史遺産>  

▼社号標、多和文庫の説明と境内案内図

 

▼社領の入口の鳥居を潜り石段をのぼる、 157段の石段を登り一の鳥居に着く

 

▼一の鳥居を潜る、参道を進む-1

 

▼参道を進む-2、志度湾と臨海工業団地が一望

静かな佇まいで、志度湾が一望できる。

▼参道を進む-3、随神門の前

 

▼由緒、随神門

 

▼随神

 

▼御新馬舎、二の鳥居

 

▼社殿へ石段を上る-1

 

▼社殿へ石段を上る-2

 

▼拝殿-1

▼拝殿-2

 

▼中門、御本殿-1

 

▼御本殿-2

 

▼神饌所・御本殿、中門・御本殿

 

▼御本殿側から見る拝殿

 

▼神紋、屋根瓦

 

 

秋祭りには志度の8つの大太鼓が勢揃いし、賑やかな祭りを繰り広げる。

 

▼多和神社-14(秋季例大祭)(web引用-水彩画風変換)

 

 

多和神社には国の重要文化財を含む数々の資料で有名な「多和文庫」(非公開)がある。

松岡調(みつぎ)(金刀比羅宮・一宮田村神社などの神職も務めた)が集めた資料群で、古文庫・古典籍・書画・出土品など5000点におよび歴史の宝庫と云って良い。

 

▼多和(香木舎)文庫、国重文の標示板

 

 

松岡調が江戸時代末期から1904(明治37)年の死去まで記した「年々日記」と「新撰讃岐風土記」は、幕末・明治時代の讃岐を知る貴重な資料である。

 

<関連遺産>

旧志度街道(源内通り)の玉浦川河口部に古い港の雰囲気を漂わせる「用心堀石灯籠」がある。

江戸時代には、この付近に高松藩の年貢米を入れる米蔵が置かれ、その用心のため1851(嘉永4)年に大庄屋上野氏らによって建てられた灯籠である。

米蔵は国道11号線を跨いで、現在の県立志度高校の体育館辺りまで及んでいたと云う。

 

▼用心堀と石灯籠

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀