新居宮池は今
宮池の遊歩道3景。
Akijii-blog巻頭言Repeat-019 Orignal掲載日:Vol.040 (2011.03.25)
頼みの綱は「自分」だ。
今日3月25日は、夏目漱石が「ああ、ここに俺の進むべき道があった!ようやく掘り当てた!」という言葉を発し、東京帝国大学に辞表を提出した。時は1907年(明治40年)であったが、その時、歴史が動いたのだ。
大学卒業後、親友・正岡子規の弟子・高浜虚子に小説を勧められ「吾輩は猫むである」を発表。
翌年に「坊っちゃん」「草枕」を書き上げ、文壇に名を轟かせる。
やがて、大学教授になるか、作家の道を選ぶか決断を迫られる。苦悩の結果、将来を保証された地位を捨てた。その選択は、日本国民の文学への関心を高めることとなった。
夏目漱石は学生時代から、わたしとは何か、が掴めなくて悩んでいたという。
文部省第一回留学生に指名され、熊本の第五高等学校の教師を辞めてロンドンに旅立つ。
外国で一人になった時、否応なく「自分とは何か」と己を見つめることになる。
ロンドンでたった一人孤独の中にいて、ますます自分というものが掴めなくなり、「夏目は、神経衰弱の果てに狂った」と、噂されるほどだった。
漱石は狂ったのではなく、自分にピントを合わせ過ぎ、他がピンボケになったのだ。
そして、漱石は掴んだ。それは自己本位ということを。
何事も自分始まり、自分に終わるということだ。自分を救う道は自分以外ない、ということだ。
すべては自分を認めることから始まる。それゆえ、漱石は自分を認めると同時に、他人の自己を認めたいという。
漱石は心の革命を果たしたのだ。漱石が神経衰弱になって掴んだ「自己本位」とは、自己中心主義とはまるで違う。漱石のいうすべては自分から始まり、自分に終わるということは、自分の足で立ち、自分で責任を持つことである。自分で自分を認めることである。拠りどころにするのは自分だ、ということだ。
ここがしっかりしていれば、時代の流れや流行に身をまかせ、フラフラと右や左に流されることはない。世間が右を向けといったら、みなで一斉に右を向くこともなくなる。
自尊の精神といってもいい。自分を大切に思う心があって、はじめて他者を大切にできるのだ。自分を認められなければ、他者も認められない。
しかし、自分が殴られたり、卑しめられたりすると、それを倍にして他者に返したいと思うのも人間である。そして、人間は裏切る生きものでもある。
つまり、一人の人間の中には、善と悪の矛盾する二つが同時に棲みついている。
そういう人間を、そういう自分を理解し他者を卑しめないように、自分を支えながら、他者を裏切るのが恐ろしいと不安におののく心をもつのが、人間が人間たる所以ではないか。
勝ち組、負け組、虐待…。いやな言葉が氾濫している今の世の中、もう一度、自尊の精神について考えてみよう。
自分でしっかりと考えて、自分の拠りどころに生きていれば、人生に勝ち負けはない。
頼みの綱は「自分」である。
<高く広がる空間>
今池(香西西町)の堤体から見る勝賀山の上空。
成田不動明王(香西西町)から見る奥の屋島の上空。
平賀神社(香西西町)の境内から見る香西寺の上空。
A seasonal flower
◇ウォーキングコースの畑で今年も咲いた浜木綿(はまゆう)
夏になると、緑の肉厚の葉の間からすっと太い花茎を立ち上げて、白くて細長い花を手毬状に咲かせる。夕方になると花が開花し、真夜中に満開になり、花は独特の強い香りが漂っている。
名前の由来は、花が木綿(ゆう)のように白く垂れることから付けられた。
木綿(ゆう)というのは、木綿(もめん)ではなく、コウゾの繊維から作った糸のことで、神事のとき榊につけ垂れ下げるもののことを云う。
原産地は日本・韓国、開花時期は7月~9月、花言葉は、「どこか遠くへ」、「汚れがない」である。
・今年-1
・22-03-07 ・22-04-02 ・22-04-26
・22-06-15 ・22-07-12 ・22-07-15(開花)
・22-12-11 ・23-01-02 ・23-01-21
・23-03-24 ・23-04-21 ・23-06-05
・今年-2
◇新居宮池の遊歩道に咲く浜木綿(はまゆう)
◇ウォーキングコースのH宅に咲くオニユリ
◇ウォーキングコースのY宅に咲くビラミットアジサイ
Akijii気ままniフォトsketch<宇佐八幡神社・鷲峰寺>
天安年間(857〜859年)豊前国宇佐八幡宮の分霊を迎え柏原村の産土神とした宇佐八幡神社。
高松市国分寺町の鷲ノ山中腹にある圓通山鷲峰寺(えんつうざんしゅうぶじ)は、奈良時代に唐より渡来した鑑真和上が開いたと伝わるお寺で、背後の鷲ノ山がインドでお釈迦様が説法したといわれる聖山「霊鷲山」に似ていることから「鷲峰寺」と名付けられたそうだ。そのような宇佐八幡神社と鷲峰寺を散策しました。
▼所在地、宇佐八幡神社
高松市国分寺町柏原〒769-0105
▼鷲峰寺-山門、四天王収蔵庫
▼宇佐八幡神社へ出発、野間川沿いに西南方向へ進む
県道33号線とJR踏切を横断し野間川沿いに西南方向へ進み、県道183号線に入る。
▼野間川沿いに西方向へ進み県道183号線の交点を左折、県道183号線を南西方向に進み国道11号線の野間交差点を横断
▼県道183号線を南西方向に進む、綾川葬祭前を通過
▼県道183号線を南西方向に進み次の三差交点を右へ入る、三差交点の右側に鷲峰寺の石標
▼国分寺町柏原を南方向に進む-1、鷲峰寺への入口前を通過し「⇦宇佐八幡神社」方向へ進む
▼国分寺町柏原を南方向に進む-2、右前方奥に宇佐八幡神社の石灯籠が見えて来た
▼「宇佐八幡神社☞」を右折(自宅から3.4Km地点)、宇佐八幡神社へ進む-1
▼宇佐八幡神社の石灯籠
▼宇佐八幡神社へ進む-2
▼宇佐八幡神社へ進む-3、前方奥に宇佐八幡神社の鳥居が見えて来た
▼宇佐八幡神社の鳥居を潜る、宇佐八幡神社の境内に着いた
宇佐八幡神社の初めは現在の鷲峰寺に隣接した場所に鎮座していたが寛文年間(1661〜1673年)に高松藩主松平頼重公が当社地内に鷲峰寺を再建し、延宝四年(1676年)に至って諸堂を造営、寺領五十石及び近隣の林等を寄贈した。
鷲峰寺は隆盛と成り宇佐八幡神社は同寺の鎮守神と同様に成ってしまった。氏子達は寺社方に願い出、寺社係役人及び氏子立会のもと中尾主馬之丞の所有林へ心霊を遷座しこれが現社地である。
▼宇佐八幡神社-1
▼宇佐八幡神社-2
▼宇佐八幡神社-3
▼宇佐八幡神社-4
▼宇佐八幡神社-5
▼宇佐八幡神社-6
▼宇佐八幡神社-7
▼宇佐八幡神社を後にして鷲峰寺へ向かう、鷲峰寺へ進む-1
▼鷲峰寺へ進む-2
▼次のT交点を左折、鷲峰寺へ進む-3
▼左に新名柏原児童館、鷲峰寺の山門が見えて来た
▼鷲峰寺に着いた、鷲峰寺の案内板
鷲峰寺は平安時代前期に空海の甥である円珍の働きかけで清和天皇の勅願寺となった寺院だが、戦国時代に土佐の長宗我部軍による讃岐侵攻を受けて伽藍が焼失。その後、高松藩初代藩主である松平頼重の命により1676年に再建された。また、鷲峰寺は82番札所根香寺の奥の院でもあり、共通点としてはどちらも円珍に関わり深いお寺であること、鷲ノ山は古墳時代に石棺に使われた「鷲ノ山石」の産地で、また根香寺がある五色台もサヌカイトという石の産地であり、古代から聖地とされてきた。
▼国分寺南部地区まちあるきマップ⑤-現在地、鷲峰寺-1
▼鷲峰寺-2
▼鷲峰寺-3
▼鷲峰寺-4
参道の右側に国の重要文化財「木造四天王立像」が納められた収蔵庫がある。
▼鷲峰寺-5
▼鷲峰寺-6
大師堂の近くには虚空蔵菩薩と石造の五重塔がある。
▼鷲峰寺-7
階段を上がった先に本堂、階段の下の左側に大師堂がある構造である。
▼鷲峰寺-8
本堂の横に「新四国二十四輩道」と云うミニ八十八ヶ所霊場があり、約2kmの道に石仏が配置され、鷲ノ山中腹をぐるりと周遊することが出来る。
▼鷲峰寺-9
▼鷲峰寺-10
▼鷲峰寺-11、鷲峰寺を後にする
▼帰路に就く(自宅まで3.6Km)、右奥にだんご山3兄弟と堂山
<akijii展-(464)>
幸せを呼ぶ切り絵(縁起のよいモチーフ)シリーズ-19
今報は「ホヌ(海亀)」で、所要時間は内切画-265分、外枠切画-25分=290Mでした。
ハワイでは海亀のことをホヌといい、幸せを招く「海の守り神」。日本では亀は長寿の象徴。
甲羅がお金の形に似ていることから、金運アップのご利益もあります。
◇原画 ◇内切画
◇外枠切画(完成作品)
引き続き、Vol.907-2/2をご覧ください。