Vol.907-2/2 R巻頭-19。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:19<志度寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.907-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:19<志度寺>

 

27.志度寺 <撮影:2012.06.13 and 2016.07.20>

志度寺は、海女の玉取り物語ゆかりの寺で、閑な境内に幾年月もの時を織り込んだ名刹。

高松藩主松平頼重公によって作られた本堂や、朱塗りで高さが33mの五重塔があるほか、仁王門の両脇には運慶作の木造金剛力士像がまつられています。また、国内でも珍しい曲水式庭園や海女の玉取り物語の情景を表した無染庭などもあり、訪れる参拝客の姿が絶えません。          (さぬき市観光協会HPより)

 

<所在地・外観> 

▼志度寺-さぬき市志度1102

▼志度寺-四国八十八カ所霊場86番札所、玉取り伝説の海女の墓

 

平賀源内記念館から讃岐街道(源内通り)を東へ400m進むと「志度寺」の門前に着く。

 

▼正面口

 

 

<概 要><歴史遺産>

志度寺(真言宗)は、後白河(ごしらかわ)上皇の「梁塵秘抄(りょうじんこしょう)」に霊験所(れいげんしょ)の1つとして志度道場が取り上げられており、平安時代後期には都でも有名であった。

屋島で源平合戦が行われた1185(文治元)年2月、海上を志度まで移動した平家を源義経軍は陸路で追いかけ、志度でも合戦が行われた。その結果、平家は西海へ落ち延び、義経軍もまた後を追ったのであった。かつての境内は波打ち際まであったが、沿岸に道が付けられた今でも境内は広く、諸堂が立ち並んでいる。

 

▼仁王門と五重塔、仁王門-1

 

 

参詣者がまず潜る「仁王門」(国重文)は、本堂と同じ1670(寛文10)年頃の建築で、年代のはっきりした建造物として貴重である。柱は太く中世以来の密教寺院の伝統を引き継いでおり、柱が8本立つ八脚門(はっきゃくもん)である。天井を見上げると棟が3本の三棟木造(みつむねぎづくり)である事が解る。

 

▼仁王門-2-八脚門、木造金剛力士立像

 

▼仁王門-3-三棟木造1

 

▼仁王門-4-三棟木造2

 

▼仁王門-5-三棟木造3

 

 

仁王門の中に安置される「木造金剛力士立像」(県文化)は、いかにも鎌倉時代前期の作らしく豪快である。

 

▼仁王門-6-木造金剛力士立像-1

 

▼仁王門-7-木造金剛力士立像-2

 

 

境内を進むと、左側に「本堂」(国重文)があるが、棟札(むねふだ)から建造は1670年である。

柱は太く、奥行に対して間口が長く、古風を示す。本堂は観音堂とも言い、「本尊木造十一面観音両脇士(りょうわきじ)立像」(国重文)が安置されている。志度寺にはもう1体、「木造如来形坐像」(県文化)がある。

 

▼本堂

 

▼大師堂、本堂と大師堂

 

 

絵画では、「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)志度寺縁起」(国重文)が伝えられている。

縁起絵の末尾に「文保元(1317)年」、軸端に「康永二(1343)年」の銘が有る事から、鎌倉時代末から室町時代初期の作と解る。縁起の中に海女の玉取りの伝説が含まれ、謡曲「海女」の題材になっている。

 

▼志度寺案内板、宝物館-1(絹本著色志度寺縁起)

 

▼宝物館-2、本堂・謡曲「海士」と海士の墓

 

 

建築では、他にも本堂のそばに「閻魔堂」、五重塔のそばに「奪衣婆(だつえば)堂」(ともに県文化)がある。

 

▼閻魔堂、薬師堂

 

▼奪衣婆堂、琰魔堂

 

▼鐘楼、木造如来形坐像(県文化)

 

▼木造十一面観音両脇士立像、三尊仏

 

▼覚阿上人霊搭、四国八十八箇処光明真言一億萬遍

 

▼奪衣婆堂・五重塔、楠

 

 

境内北西部の墓地に隣接して海女の墓五輪塔群と、並んで生駒親正(ちかまさ)墓塔もある。

 

▼生駒親正墓塔

 

▼海女の墓五輪塔群-1

▼海女の墓五輪塔群-2、高浜年尾句碑

 

 

<関連遺産>

志度寺門前南側の「自性院(じしょういん)」は、平賀家の菩提寺で、源内の墓がある。

 

▼仁王門を後に自性院常楽寺へ、自性院常楽寺-1

 

▼自性院常楽寺-2

▼自性院常楽寺-3、源内の墓

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀