Vol.904-2/2 R巻頭-16。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:16<願興寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.904-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:16<願興寺>

 

24.願興寺 <撮影:2016.03.28 and 2016.07.15>

願興寺(がんこうじ)は「宝蔵院古暦記」によると天長7年(830)、宝蔵院の徹円が建立し、衆病を救うため 本尊薬師如来を安置したとある。しかし、旧寺蹟(現在の寺より南200m)から出土した瓦から奈良時代には建立されていたと考えられる。

宝蔵院古暦記の記述は再建された年代であろう。2010年11月、本堂が新築された。

この寺の背面は石鎚山の山麓に成っていて、ここに西国33観音霊場(ミニ霊場)が開設されている。

西国三十三所などの観音霊場の巡礼を望む者は多いが、遠く易しいものではなく巡礼を諦める者も少なくなかった。

明治時代に、この寺に設置された遥拝場により観音菩薩の慈悲を載けるように成ったので、多くの人々がお参りに来るようになった。

 

<所在地・外観>

▼願興寺-さぬき市造田是弘1248

▼願興寺-乾漆聖観音坐像(国重文)がある

 

JR造田駅から西北に進行してJR高徳線の踏切を越え、北上して中央橋(鴨部川)を渡り鴨部川北岸沿いに東へ進む。鴨部川に架かる2つ目の橋(北山橋)の所で北に曲がり、細い道を山の方に上ると、突き当りに「願興寺」(真言宗)がある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼道路入口、寺入口

 

 

現在の願興寺は丘陵を上った所に有るが、南の低い田圃の中から奈良時代から平安時代とみられる蓮華文軒丸瓦・重弧文(じゅうこもん)軒平瓦や礎石が出土しているので、古代寺院で有った事が解る。文禄年間(1592~1596)に山麓を拡張して現在の寺域となり、旧寺地は田圃になった。現在、寺の南にある寺池の所が元の本堂と考えられ、鴨部川に土手に近い小祀(しょうし)辺りが山門であった。

 

▼寺池

 

▼寺名標、山門横のタラヨウ

 

▼説明板、山門前の石段

 

▼山門、由来

▼西国三十三霊場入口、西国三十三霊場への山道

 

▼本堂、本尊・本尊真言・ご詠歌の額

 

▼境内

 

 

願興寺には畿内(きない)より西では非常に珍しい「乾漆聖(かんしつしょう)観音坐像」(国重文)が伝えられている。脱乾漆といって粘土で造った原型の上に麻布を置き、漆で固めた後、粘土を取り出し、中に支柱を入れる。その後、表面に漆を塗って形を整え、金箔をおいて仕上げる技法で、奈良時代のものと考えられる。

 

▼金堂

 

▼国重文の説明板、国重文-乾漆聖観音坐像(web引用-水彩画風変換)

 

 

この仏像はもと三木町下高岡の鰐河神社の別当応神寺(おうじんじ)に有ったもので、明治時代初期の神仏分離以後に願興寺にもたらされたものである。

 

<関連遺産>

▼鰐河神社-1

 

▼鰐河神社-2

 

願興寺入口(北山橋)から西方向へ1.4kmの造田宮西交差点(県道37/3号線交点)から南へ向かうと、鴨部川に架かる広瀬橋(県道37号線)があり、橋の西詰に江戸時代の「遍路道標」が立っている。鴨部川の西側の道を南方向に進むと、歩き遍路が長尾寺に向かう道となる。

 

▼広瀬橋

 

▼江戸時代の遍路道標(広瀬橋西詰)

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀