Vol.899-2/2 R巻頭-11。歴史(観て歩き)レポ-東讃編11<旧恵利家住宅・吉金窯跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.899-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:11旧恵利家住宅・吉金窯跡

 

17.旧恵利家住宅 <撮影:2017.05.04 and 2017.05.22>

旧恵利家(きゅうえりけ)住宅は、17世紀末に建築された香川県内最古の農家住宅で、国の重要文化財に指定されています。この建物は大川町新名という地域にありましたが、平成13年に現在の場所に再移築されました。

屋根は装飾性の少ない簡素な茅葺きの寄棟造で、屋根周囲を瓦葺の庇とせずに軒先まで茅で葺き降ろしています。

天井は大和天井という、丸竹を敷きつづらで編みその上を、藁を敷き詰め土壁を塗り付けたものです。

柱は主に栗が使用され、ここで暮らしていた人々の暮らしが染み込んでいます。

また、背面には角屋が突出しています。            (さぬき市観光協会HPより)

 

<所在地・外観>

▼旧恵利家住宅-さぬき市大川町富田中3277-1

▼旧恵利家住宅-ツクダレの屋根が美しい県内最古の民家

 

JR神前駅から県道140号線を南に向かい、県道10号線(さぬき東街道)の田辺池南交差点で左折して東へ進み、「道の駅 みろく」を過ぎて直ぐ南へ曲がって坂を上ると、みろく自然公園に至る。突き当りの駐車場前を下って行くと「旧恵利家住宅」(国重文)がある。

 

▼みろく自然公園の導入路

 

▼旧恵利家住宅の入口

 

 

<概 要><歴史遺産>

旧恵利家住宅は、もと津田川の最上流部、新名(現、さぬき市大川町田面)にあった長(おさ)百姓藻玉(もたま)氏の住宅だったが、安政年間(1854~1860)の頃、沢(さわ)氏(のちの恵利氏)の所有と成った。保存のため、一時、大川ダム畔に移築されたが、その後は現在地に移された。

因みに長百姓(おさびゃくしょう)とは、室町・江戸時代の村落の有力な百姓。

村政への発言権が強く、名主をこの層から出すところも少なくなかった。

乙名百姓(おとなびゃくしょう)ともいう。

 

▼旧恵利家住宅の外観

 

 

桁行(けたゆき)7間・梁間(はりま)3間半の寄棟造で、屋根は茅葺き、軒先まで葺きおろすツクダレである。内部は土間・広間・座敷納戸の三間取りで、納戸の奥に角屋(つのや)と呼ぶ拡張部がある。

 

▼寄棟造、屋根は茅葺き軒先まで葺きおろすツクダレ

 

▼土間、広間

▼座敷、納戸

 

▼縁側、唐臼

 

 

材は主にクリの木で、大黒柱の下部には縄を編んだ時に磨り減った跡が付いている。

 

▼材はクリの木

▼大黒柱

 

 

<関連遺産>

長百姓の家で有ったと言う事で、細川家住宅より一回り大きいが、様式的に古さを残しているのは広間を土座にしている細川家住宅の方である。(細川家住宅は3報後に詳細を紹介)

 

▼細川家住宅-主屋と納屋、屋根は寄棟の茅葺-ツクダレ形式

 

▼細川家住宅-納屋、便所と主屋

 

 

みろく自然公園(旧恵利家住宅の南東上部)には、「さぬき市歴史民俗資料館」がある。

 

▼みろく自然公園の案内図、さぬき市歴史民俗資料館-1

 

 

各種の民俗資料を始め、奥3号墳出土三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や雨滝城跡などからの出土資料、歴史資料を展示している。

 

▼さぬき市歴史民俗資料館-2

 

▼さぬき市歴史民俗資料館内-1

▼さぬき市歴史民俗資料館内-2

 

▼展示品-かまどと火吹き竹、マツダK360

 

▼展示品-大八車、駕籠

 

▼展示品-二人踏水車、消防大八車

 

▼展示品-山仕事の道具、製縄機

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

18.吉金窯跡 <撮影:2015.09.11>

吉金(よしかね)地区の三次山の東麓に大規模な窯跡があるが、この窯跡は地名から吉金窯跡と呼ばれ、多くの陶工達によって大量の焼き物が作られたため、付近一帯に膨大な量の陶片や窯道具が埋まっている。

昭和43年に陶器と磁器の二基の窯のうち、陶器窯だけの発掘調査が行われた。

陶器窯は焚き口を東に向け、傾斜を利用した実に大規模な登り窯で有る事が解った。

その規模は全長40m、高低差9mの八段の登り窯で有った。八房からなる焼成室は、最下段が1.6m×3m、最上段5m×5mと上段に成るに連れて大きくなり、天井の厚さは14cmと厚く造られていた。

この窯の特徴は規模が大きい事の他、南京染め付けと呼ばれる磁器が焼成されている事で、瀬戸よりも古い事が注目される。焼成されたものは、徳利、鉢、水瓶、ゆきひら、茶碗、土瓶、洒杯など生活必需品の全てに亘っている。

 

<所在地・外観>

▼吉金窯跡-さぬき市大川町富田西106

▼吉金窯跡-大規模な江戸時代の登り窯

 

JR神前駅から細い道を南に約200m行き、県道140号線を東に曲がり、坂を上って行くと切り通しを通る車道の峠を越える辺りに、「吉金窯跡(⇐奥へ10m)」の看板が出ている。

 

▼県道140号線を西北へ進む、県道140号線の東に看板が見える

 

 

<概 要> 

切り通しの南側は前山(まえやま)、北側は三次山(さんじやま)という。

吉金窯跡」(県史跡)は、三次山の東斜面にある。

 

▼吉金窯跡の看板、吉金窯跡に着いた

 

 

<歴史遺産>

草に覆われた道に入ると、まもなく大きな登り窯が目に入ってくる。

約9mの高低差のある斜面に長さ40mほどの窯が築かれ、大規模なものである。

 

▼吉金窯跡

 

 

18世紀末(天明・寛政年間)に、高松藩の殖産興業政策の一環で造られて保護された窯で、徳利・鉢・水瓶・茶碗・土瓶・酒杯などの生活用品が焼かれていた。

尾張の瀬戸(現、愛知県瀬戸市)で南京(なんきん)染付が焼かれるように成るのは、19世紀に入ってから(享和年間<1801~1804>)なので、磁器の窯としては瀬戸より古いとみられる。

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀