Vol.895-1/3に続けてご覧ください。
さぬき歴史(観て歩き)フォトレポ-東讃編:07<水主神社・三宝寺>
<11.水主神社> <撮影:2012.10.04 and 2017.04.25>
播磨灘に注ぐ与田川の上流で、水主三山(虎丸・本宮・那智の各山)が形よく並んでいる。
その三山の中央が水主(みずし)神社で、鬱蒼とした樹林のなかにある。春日造りの美しい社で、杉の巨木が境内を覆っている。
水主神社は、承和3(836)年に神階を授けられ大明神(正一位)に累進した讃岐最古の延喜式内社である。
祭神は倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)で、大和の箸墓の主と考えられ耶馬台国の卑弥呼とみる説もある。倭迹々日百襲姫は幼少期から成年期まで水主に滞在し、農業や水路などの水徳自在の神と称えられるようになり、次第に神格が形成されたと社伝にある。
高松市一宮町に所在し、水主神社と同じ倭迹々日百襲姫を祀る田村神社(讃岐一の宮)は、ひょっとして水主に由来する農業水利技術者集団の氏神であったかもしれない。
のみならず、百襲姫の弟・稚武彦命(わかたけひこのみとと)は、鬼無など讃岐に残る「桃太郎伝説」の桃太郎。
百襲姫一族が讃岐から瀬戸内海の制海権を得る上で重要な島・女木島を手中にして、政治、経済的にも着実に力を蓄えていった経緯が桃太郎伝説から推測できる。
讃岐こそ百襲姫の本貫地。ヤマト王権の淵源を解く鍵が讃岐にあるかも知れない。
<所在地・外観>
▼水主神社-東かがわ市水主1418
▼水主神社-讃岐最古の延喜式内社
與田寺から与田川に沿って約3.7km溯(さかのぼ)ると、「水主神社」の杜が見えてくる。
<概 要><歴史遺産>
水主神社は、平安時代初期の836(承和3)年に、讃岐では最も早く従五位下(じゅごいのげ)の位を授けられており、奈良時代には創建されていたとみられる。
▼境内入口、鳥居と社号標
▼参道と門神、社頭掲示板
▼御由緒、四国のみち案内板
祭神は、倭迹々日百襲姫命であるが、元は豊富な湧き水の水神を祀り、大内郡全体の開拓の神と云ってもよい。本殿左側にある井戸を閼伽谷(あかたに)の水と言い、古来より神事にはこの水を使用している。
▼参道の清水、由緒書と手洗盥
▼閼伽谷の井戸-1
▼閼伽谷の井戸-2、水神社
▼神馬、大水主御禊殿
▼社務所、うつぼ船
現在の社殿は、本殿・脇殿・末社の全てが春日造で統一されており、神社建築として貴重である。
▼拝殿-1
▼拝殿-2
▼本殿と國王神社、本殿
▼國王神社、熊野三社
境内の大杉は、水主神社の「いのり杉」として県の保存木に指定されている。
▼いのり杉
また、百襲姫の墓と伝える古墳を含む社叢一帯は、アカマツや多種類の常緑広葉樹が鬱蒼と茂り、水主自然環境保全地域として県の指定を受けている。
▼四国のみちから見る、那智山山頂から見る
水主神社には多くの文化財が有るが、中でも倭迹々日百襲姫命・倭国香(くにか)姫命(百襲姫の母)・大倭根子彦太餌瓊(おおやまとねこひこふとに)命(百襲姫の父孝霊こうれい天皇)を模った3軀(く)の「木造御神像」(国重文)は、平安時代の神像として貴重である。
他に、「木造男神(だんしん)坐像・木造女神坐像」(国重文)もある。
源義経が寄進したと言う伝説のある「雷文螺鈿鞍(らいもんらでんくら)」(国重文)は、平安時代末期のものである。
伊予国石槌社(いしづちしゃ)(現、石鎚神社<愛媛県西条市>)からもたらされたと伝える「大般若経(だいはんにゃきょう)」(国重文)は藤原時代のもので、「経箱(きょうばこ)」(大般若経の附指定で国重文)60箱に納められている。
内底には経箱を勧進(かんじん)した事を記す、1423(応永30)年の記録などが墨書(ぼくしょ)されている。
増吽(ぞううん)が南北朝時代の疲弊から復興に尽力した応永年間(1394~1428)の頃が最も栄えた時期とみられ、その頃の社殿の蟇股(かえるまた)が保存されている。
室町時代のものとしては、ほかに「木造狛犬・木造獅子頭」(ともに県文化)がある。
<文は現地説明板やWebなどより引用した>
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