Vol.894-2/2 R巻頭-06。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:06<虎丸城跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.894-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:06虎丸城跡

 

10.虎丸城跡 <撮影:2012.10.04>

築城年代は定かではないが、標高417mの虎丸山山頂に築かれている。

初期の城主は寒川氏で太田郡、寒川郡、小豆島を領し東讃に勢力を張った豪族である。

元亀3年(1572年)寒川元政の時代に阿波国の三好長治によって虎丸城は奪われ、寒川氏は昼寝城へ退き、虎丸城へは三好氏の家臣雨滝城主安富氏が入る。

天正10年(1582年)中富川合戦で長宗我部氏に敗れた十河存保は虎丸城へ逃れる。

天正12年(1584年)十河城は長宗我部氏によって落城したが、虎丸城も奮闘するが天正12年(1584年)末頃に落城したと考えられている。

 

<所在地・外観>

▼虎丸山(虎丸城跡)-東かがわ市水主・与田山

▼虎丸山(虎丸城跡)-旧大内郡を代表する城跡

▼与田川沿いから見る虎丸山、別所川から見る虎丸山

 

 

JR三本松駅の南西約4kmの位置に、頂上部に特徴的な丸い盛り上がりが有る虎丸山の山頂(417m)に、「虎丸城跡」がある。JR三本松駅から国道11号線を西へ1.2Km進み、県道129号線を1.6Km南方向に向かい、高松自動車道を潜って八坂神社東交差点を左折し東方向へ0.3Km進み、与田川を渡たり右折して道なりに0.6Km南下すると登山口に着く。

 

<概 要>

寒川氏が堅固な要塞とした昼寝城からちょうど寅(東北)の方角に有るので、虎丸と呼ぶように成ったと考えられる。かなり上の方まで道の横を小川が流れており、水を得やすい立地である。

 

▼登り口(山頂へ1.8㎞) 、沢を渡る-1

 

▼登山道-1、沢を渡る-2

 

▼登山道-2、沢を渡る-3

 

▼登山道-3、沢を渡る-4

 

▼三本松、急坂の登山道

 

▼稜線コル、373m地点の三等三角点

 

▼津田湾が良く見える、山頂へ登りを開始

 

 

<歴史遺産>

城跡には、本丸・二の丸跡と考えられる平坦地があり、周りは切り立ったような崖である。

2001(平成13)年度の踏査(とうさ)で、多くの竪堀(たてぼり)が確認され、四方の尾根筋に階段状の郭(くるわ)を配した立派な中世城郭で有る事が明らかになった。

 

▼山頂へ残り120m、山頂へ到達したakijii

 

▼トタン屋根の小屋、小屋の内部

 

▼新宮神社の鳥居、新宮神社の祠

 

▼山名標識前のakijii、東かがわ里山会の標識板

 

▼那智山中腹から見る虎丸山、那智山山頂から見る虎丸山

 

 

また、虎丸山を別名で新宮山(しんぐうさん)とも言うが、大内ダムを挟んで西側に本宮山(346m)、北側に那智山(271m)が有る事から、熊野信仰の現れとみる事が出来る。

 

▼ダム堤体から見る大内ダム湖、那智山山頂から見る大内ダム湖

 

▼那智山の中腹から見る本宮山、那智山山頂から見る本宮山

 

▼県道129号線から見る那智山、大内ダム堤体から見る那智山

 

 

水主(みずし)の熊野信仰は、鎌倉時代末期から南北朝時代に掛けて始まったもので、室町時代に増吽(ぞううん)が盛んにしたと考えられる。

 

▼水主神社-入口、境内

 

▼水主神社-拝殿、熊野三社

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀