Vol.893-2/2 R巻頭-05。歴史(観て歩き)レポ-東讃編:05<與田寺> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.893-1/2に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-東讃:05與田寺

 

09.與田寺> <撮影:2013.08.09 and 2017.04.25>

與田寺(よだじ)の寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基を開山として醫王山薬王寺薬師院の号で法相宗の寺院として創建され、後に空海により宗派を真言宗、寺号を神宮寺に改められたと云う。

嵯峨天皇の時代に勅願寺となり、応長元年(1311年)には国内談議所の―つに定められ、13世紀後期から始まる増吽(ぞううん)による中興の時代は後小松天皇より虚空蔵院の院号を下賜されて、1,000を越す末寺を有する讃岐国屈指の大寺院となった。

安土桃山時代に豊臣秀吉の長宗我部氏攻めの兵火を受けて堂塔伽藍の大半を焼失したが、江戸時代初頭に高松藩初代藩主松平頼重の帰依により復興される。明治時代になってから、與田郡の所在であることから神宮寺から與田寺に改められた。「厄除けの寺」、「四国八十八箇所総奥の院」として広く知られ、年間約20万人の参拝者を集める。 (Wikipediaより)

 

<所在地・外観>

▼與田寺-東かがわ市中筋466

▼與田寺-四国八十八カ所奥の院、厄除けの寺

 

JR三本松駅から国道11号線を西に0.6Km進み、与田川新橋西詰交差点で左折、与田川西岸の堤に沿って1.0Km南方向に進んで「與田寺➡200m」の案内板に従い右折すると、誉水(よみず)小学校跡(現在は與田寺の駐車場)の直ぐ西側に「與田寺」がある。

仁王門の前には、大きな「ムクの木」(県天然)が聳えている。

 

<概 要><歴史遺産>

▼興田寺の門前、與田寺の説明板

 

▼ムクの木、椋の木の説明板

 

▼山門に向かって右のムクの木、左のムクの木

 

▼仁王門

 

▼阿形仁王像、吽形仁王像

 

 

真言宗善通寺派(もとは御室派)の古刹で、今は厄除けの寺として初詣などで賑わう。

 

▼境内、鐘楼門

 

▼大師堂・ご祈祷御待合所、水子・子育地蔵

 

▼多宝塔、十二支御尊像

 

▼本堂

 

▼大師堂-山上-1

 

▼厄除石段:男四十二、厄除石段:男女六十一

▼大師堂-山上2、大師堂-本尊弘法大師不動明王

 

 

11世紀末~12世紀初めの古式の巴文(ともえもん)瓦が出土しているので、創建もその頃と考えられる。

與田寺は、鎌倉時代の1311(応長元)年、讃岐七談議所(だんぎしょ)の1つに加えられた。

與田寺が談議所に成った事で、大内郡(現、東かがわ市)の僧侶は真言教学の学問が出来るように成った。

 

▼談議所の石標

 

 

鎌倉時代は與田寺にとって発展期であった。

南北朝争乱の時には一時荒廃したが、室町時代に中興の祖と言われる増吽(ぞううん)が住職になって復興した。増吽の墓は本堂背後の山頂にある。客殿の西側にある庭園も室町時代に遡り、東讃では最も古い。戦国時代には兵火で消失し、仙石秀久によって寺領も没収されたが、江戸時代に高松藩主松平頼重の庇護によって復興した。現在は、四国八十八個所霊場88番札所大窪寺への参拝を済ませた遍路が訪れる奥の院として賑わっている。

 

<関連遺産-1>

與田寺の北西約2.3kmの大谷(おおたに)には、真言宗善通寺派の「釈王寺(しゃくおうじ)」がある。

 

▼寺標、仁王門

 

▼阿形仁王像、吽形仁王像

 

▼鐘楼、境内

 

▼本堂-1、本堂配置図・右側は観音堂

 

▼本堂-2:寄棟造、本堂:正面立面図

 

▼本堂-3、本堂:右側面立面図

 

▼本堂-4、本堂:一階平面図

 

▼本堂背面・右手は玉石乱立の擁壁、本堂-5

 

▼本堂裏の観音堂

 

▼仁王門方向を見下ろす、墓苑を見下ろす

 

▼不動堂、焔魔堂-1

 

▼焔魔堂-2

 

 

<関連遺産-2>

馬篠・小磯の海岸線に出ると、海上に「絹島(きぬじま)および丸亀島」(国天然)が見える。

両島ともガラス質の讃岐岩質安山岩の柱状節理が見られる。

 

▼馬篠漁港から見る絹島、丸亀島・女島と山田海岸

 

▼鶴羽から見る丸亀島・絹島・女島

 

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀