Vol.871-2/4に続けてご覧ください。
▼拝殿-1
▼本殿、社殿
▼護摩堂、境内から見る堤山
▼拝殿-2、拝殿と手水舎
▼手水舎、社殿建設記念碑
▼忠魂堂、忠魂堂碑
▼忠魂社
▼古い祠群、境内に戻る
▼境内と堤山、裏参道を下る-1
▼裏参道を下る-2、快天山古墳への道に下りた(金毘羅街道)
<快天山古墳までのメモ>
▼左後方に住吉神社前交差点が見える、金毘羅街道との交点
▼古代より歴史と人情の里御茶園集落(現住吉集落)の案内板、「綾歌十景-こんぴら道」の石柱
▼快天山古墳へ向かう(約400m)、快天山古墳への道標
▼円福寺(廃寺)茶堂跡と御茶園の由来の説明板、後方を振り返る
▼快天山古墳へ進む-1、上空に送電線
▼送電線
▼快天山古墳へ進む-2
▼快天山古墳へ進む-3、次の三差交点を左折
▼「⇦快天山古墳」の道標、快天山古墳へ進む-4
▼快天山古墳へ進む-5、快天山古墳の標識が見えて来た
▼「国指定史跡・快天山古墳」の標識、快天山古墳の駐車場に着いた
<快天山古墳探訪メモ・ルポ>
香川県中央部、丸亀市南東部の横山山系から南に伸びる尾根の先端部に築造された大型前方後円墳である。
後円部墳頂には江戸時代の円福寺僧侶の快天・快山・宥雅の墓(無縫塔)が残り、「快天山」の小山名・古墳名はこれに由来する。調査は1950年(昭和25年)に地元中学生による露出石棺の発見とそれに伴う発掘調査がなされたのを契機とし、その後数次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を北方向に向ける。墳丘は、後円部では3段以上の築成で、前方部では3段築成。
墳丘長は98.8mを測るが、これは香川県では富田茶臼山古墳(さぬき市大川町富田中、139m)に次ぐ第2位、四国地方では第3位の規模になる。
主体部の埋葬施設は3基からなり、竪穴式石槨2基・竪穴式粘土槨1基がいずれも後円部に設けられている。
いずれも内部に刳抜式割竹形石棺(刳抜式石棺としては全国で最古式)が据えられ、棺内外からは人骨のほか多数の副葬品が検出されている。
この快天山古墳は、古墳時代前期後半の4世紀中葉頃の築造と推定される。築造当時としては四国地方で最大規模、主丘(円部)の大きさはそれまでの直径30-40m程度(高松茶臼山古墳・猫塚古墳)から直径60m程度へと大きく飛躍を見せており、以後も大型前方後円墳の築造は三谷石舟古墳・富田茶臼山古墳へと継承される。
快天山古墳自体としては、「讃岐型前方後円墳」と呼ばれる讃岐地域独特の特徴と畿内首長墓の特徴を併せ持つほか、本古墳を契機とする刳抜式石棺の使用が以後は讃岐を中心に畿内・吉備まで広がることから、畿内との政治関係を表す古墳として注目されている。古墳域は2004年(平成16年)に国の史跡に指定されている。(Wikipedia引用)
▼古墳駐車場-1、古墳説明板(パンフレットを自由に)
▼古墳パンフレット-1
▼古墳パンフレット-2
▼古墳パンフレット-3
▼古墳パンフレット-4
▼古墳の駐車場を進む
▼古墳に着いた、前方部前端-1
▼前方部前端-2
▼前方部前端-3、後円部墳頂へ進む-1
▼後円部墳頂へ進む-2、後円部墳頂に着いた(発掘調査中の模様)
引き続き、Vol.871-4/4をご覧ください。