Vol.858-4/6に続けてご覧ください。
<長崎の鼻までのメモ>
▼下った急斜面を振り返る、長崎の鼻へ進む-1(右に指導標)
▼指導標「⇦長崎の鼻450m」、長崎の鼻へ進む-2
▼長崎の鼻へ進む-3、長崎の鼻が見えて来た
▼長崎の鼻のズーム景、長崎の鼻の奥に男木島
▼長崎の鼻へ進む-4、右に長崎鼻古墳案内板(これより約100m)
▼右は木里神社への入口-奥に指導標、指導標「⇦長崎の鼻250m」
▼長崎の鼻へ進む-5
▼長崎の鼻の駐車場に着いた、長崎の鼻へ進む-6
▼前方に指導標、指導標「⇦長崎の鼻110m」
▼瀬戸内海国立公園・屋島の案内板、長崎の鼻に着いた(長崎鼻砲台跡の石標)
<2.長崎の鼻探訪メモ・ルポ>
嘉永6年(1853年)のペリー以来、外国船の監視と防備の必要性が高まり、讃岐国でも、幕末の文久3年(1863年)、幕府の命を受けて11代高松藩主(最後の藩主)・松平頼聰(よりとし)(=将軍・徳川慶喜とは従兄弟)が瀬戸内と高松湊の防備のため、長崎の鼻に砲台を築いています。
幕府は、高松藩に対して藩内の海防を強化するため、将軍家茂の京上洛の際にも警備を免じています。
藤川三渓の設計で、海に向かって3段の構えで、上段は守備兵の屯所、中・下段には大砲が備えられていました。
現在、砲台の上段部分が駐車場になっており、中段・下段の砲台部分へは下ることに。
長崎鼻台場に備えられた大砲は、二十六斤砲と十二斤砲が合計6門でした。
▼屋島案内図と奥に女木島、砲台跡(上段)を周回
▼砲台跡(上段)から見る西方向のパノラマ景
▼下(中)段の砲台跡へ降りる-1
▼下(中)段の砲台跡へ降りる-2
▼下(中)段の砲台跡へ降りる-3
▼下(中)段の砲台跡へ降りる-4
▼下(中)段の砲台跡へ降りた、長崎ノ鼻砲台跡の説明板
▼下段の砲台跡へ進む-1
▼下段の砲台跡へ進む-2、右側の岩石はイヌの頭のように見える
▼下段の砲台跡へ進む-3、下段の砲台跡に着いた
▼砲台跡からの180度パノラマ景
▼下段の砲台跡-1
▼下段の砲台跡-2
▼下段の砲台跡から階段下まで戻る-1
▼下段の砲台跡から階段下まで戻る-2
▼砲台跡の岩石を振り返る、下段の砲台跡から階段下まで戻る-3
▼下段の砲台跡から階段下まで戻る-4、階段下まで戻った
▼長崎の鼻から見る屋島北嶺、屋島北嶺の遊鶴亭のズーム景
▼西北(男木島・豊島の島々)方向、西南(高松市周辺)方向
▼長崎の鼻駐車場まで戻る-1
▼長崎の鼻駐車場まで戻る-2
▼長崎の鼻駐車場まで戻る-3、長崎の鼻駐車場に戻った
<帰路メモ>
▼帰路のことでんバス停「健康ランド前」へ向かう(約3.0km)、往路を引き返す-1
▼往路を引き返す-2
引き続き、Vol.858-6/6をご覧ください。