Vol.857-3/5に続けてご覧ください。
▼旧屋島ケーブル山上駅-5
▼旧屋島ケーブル山上駅-6
▼旧屋島ケーブル山上駅-7
▼旧屋島ケーブル山上駅前の現況-1
▼旧屋島ケーブル山上駅前の現況-2
▼旧屋島ケーブル山上駅前の現況-3
▼旧屋島ケーブル山上駅前の現況-4
<屋嶋城跡城門までのメモ>
▼屋嶋城跡城門へ向かう(約400m)、旧屋島ケーブル山上駅を振り返る
▼屋嶋城跡城門の分岐地点に往路を引き返す-1
▼屋嶋城跡城門の分岐地点に往路を引き返す-2、屋嶋城跡城門の分岐地点に戻った
▼「⇦源平合戦史跡・源平合戦展望台地➡」の石柱、「⇦屋嶋城跡 城門」標識板
▼屋嶋城跡城門へ下って行く-1
▼屋嶋城跡城門へ下って行く-2、屋嶋城跡城門に着いた
<屋嶋城跡城門探訪メモ・ルポ>
唐と新羅の連合軍に攻め滅ぼされた百済を再興するため日本は救援軍を朝鮮半島へ派遣しましたが、西暦663年8月、白村江の戦いで両国連合軍に大敗しました。これを契機として、唐・新羅の侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に作られた朝鮮式山城の一つが屋嶋城です。日本書紀の天智天皇6(西暦667)年11月の条に「倭國高安城(やまとのくにたかやすのき)、讃吉國山田郡屋嶋城(さぬきのくにやまだのこおりやしまのき)、對馬國金田城(つしまのくにかなたのき)を築(つ)く」(※倭國→現在の奈良県、對馬國→現在の長崎県対馬市)との記載がありますが、長らくその実体はよく分かりませんでした。平成10年2月に南嶺山上部近くの西南斜面において石積みが発見されたことを契機にして、南嶺北斜面・南斜面で確認されていた土塁と関連することが分かり、東斜面でも同様の地形が確認されたことから、山上部付近の斜面に断続的ながら古代山城屋嶋城の外郭線(防御ライン)が巡っていることが判明しました。
約14年におよぶ発掘調査によってその全体像が少しずつ分かりかけています。(高松市HP)
▼「屋嶋城とは」の説明板、歩き易く階段や手摺が整備されている
▼迫力の石積み、「屋嶋城城門」の説明板
▼屋嶋城城門を進む-1
▼屋嶋城城門を進む-2
▼屋嶋城城門から見る高松サンポートのズーム景、香川県庁舎のズーム景
▼屋嶋城城門から見る高松市木太町4区のズーム景、屋嶋城城門を進む-3
▼隅丸方形状遺構、屋嶋城城門を進む-4
▼屋嶋城城門を進む-5、城門-1
1998年1月、屋嶋城を探索していた平岡岩夫さんがこの場所で正面の石積みを発見されました。
この発見を契機に、高松市教育委員会による発掘調査が開始され、2002年、城門遺構の発見によってついに屋嶋城が実在したことが証明されたものです。発掘調査によって高さ6mにも及ぶ巨大な城壁も築かれていたことが解りました。
城門は、2.5mの段差を設けて敵の侵入を阻む構造となっていて、当時は、梯子(はしご)などで出入りをして、有事の際には梯子をはずしていたと考えられる。
▼城門-2
▼城門南側城壁-1
石積みの石材は安山岩で、淡い茶色の石が石積みに利用されていたもので、黒もしくは灰色の石はたに加工して補ったものである。屋嶋城の実在を確定させたのは城門の発見でした。正面に見える城門の外側には2.5mの段差、懸門(けんもん)があり、敵が容易に侵入できなくなっている。
▼城門南側城壁-2、水口
城門の石積み真ん中ほどに空いた水口の穴からは雨が降ると水が流れる。
▼城門南側城壁-3
▼城門南側城壁-4、「甦る屋嶋城」の説明板
▼城門南側城壁-5
さらに、城門の扉から城内へと入ってくると手前の岩盤に行く手を阻まれ、向かって右側へと向かうしかありません。
これは城内への侵入を妨げるのに加えて、この周辺で警備する兵士が的に横の死角から攻撃するのに適した構造、甕城(おうじょう)になっている。
▼城門南側城壁-6
このような防御に優れた構造は当時の朝鮮半島にあった城づくりの技術を用いたもので、百済(くだら)の人たちが城づくりに関わったことを伝えてくれる。
<遍路道・不喰梨までのメモ>
▼遍路道「不喰梨(くわずのなし)」に降りる(約230m-高低差約100m)、遍路道へ下る-1
このルートは2016年開通した城門跡ルートで激坂を下る(直登)階段路である。
▼遍路道へ下る-2、遍路道「不喰梨」まで約230mの標示板
▼遍路道へ下る-3、屋嶋城城門を振り返る
▼遍路道へ下る-4
▼遍路道へ下る-5
▼遍路道へ下る-6
▼遍路道へ下る-7
引き続き、Vol.857-5/5をご覧ください。