Vol.856-1/5に続けてご覧ください。
かがわ探訪Akijii77撰シリーズ-47<4.城址:01)>(引田城址)
断崖絶壁の海城の引田城跡(城山)を訪ねました。
<歩行ルート>総距離4.9Km(スタート駅~帰宅駅)(立ち寄り部分不含)、総歩数 9,280
▼近郊航空写真、歩行ルート図
▼引田城跡-引田港側登山口、引田城跡-本丸跡
▼引田城跡-北二の丸の石垣、引田城跡-田の浦キャンプ場側登山口
<探訪地点までのメモ>
▼JR端岡駅②番のりばへ進む-1
▼JR端岡駅②番のりばへ進む-2
▼高松行に乗車、JR高松駅で高徳線に乗り換え
▼徳島行に乗車、JR引田駅で下車(JR乗車時間約110分)
高徳線は単線のため、乗車時間の半分は特急列車の追い越しや、上り列車の待ち時間に費やされる。
▼JR引田駅をスタート、引田城跡の引田港側登山口へ向かう(約1.2km)-国道11号線を横断
▼駅前通りを北方向に進む、次の交点を右折
▼大通を東方向に進む、次の交点を左折
▼南後町を北方向へ進む-1
▼南後町を北方向へ進む-2(左に八坂神社)、八坂神社
▼北後町を北方向へ進む、突き当たりを右へ
▼象ノ棚を東方向へ進む-1、円立院
▼象ノ棚を東方向へ進む-2
▼次の交点(讃州井筒屋敷の角)を左折、松の下を北へ進む-1
▼右に讃州井筒屋敷・左は讃州笠屋邸、松の下を北へ進む-2
▼右にかめびし屋、松の下を北へ進む-3
▼御幸橋(小梅川)を渡る-1
▼御幸橋(小梅川)の右(東-戎橋)方向、左(西-翼山)方向
▼御幸橋(小梅川)を渡る-2(正面に誉田八幡神社の鳥居)、誉田八幡神社の鳥居と参道
▼誉田八幡神社の参道を進む、誉田八幡神社の石灯籠と注連柱
▼誉田八幡神社、誉田八幡神社の前を右折
▼北川向を東へ進む-1、ミラーマーキング
▼北川向を東へ進む-2、次の交点を左折
▼「⇦引田城跡200m先」の案内板、蛭子神社
▼引田港沿いに北方向に進む-1(正面に城山)、引田港沿いに北方向に進む-2
▼引田港沿いに北方向に進む-3、次の交点を左折
▼「⇦引田城跡」の案内板、引田城跡-引田港側登山口に着いた
<引田城跡散策メモ・ルポ>
引田城は讃岐国で初めて総石垣で築かれた戦国時代終わりごろの城です。当時の石垣が今も残っています。
ボランティアガイドによる案内もできます。2017年に公益財団法人日本城郭協会により続日本100名城に選定、2020年に国史跡に指定されました。(香川県観光協会HP)
引田城跡は、中世より播磨灘の要地であった引田港の北側を囲むように岬状に突き出した城山(標高82m)の山頂に築かれた、戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末期~17世紀初期)の城跡です。天正年間の土佐国長宗我部氏による讃岐国侵攻の際には、重要な軍事拠点となったことが知られ、天正15(1587)年には生駒親正が入城したとされる。
生駒氏は、その後、高松城、丸亀城を築き、引田城はこの二つの城とともに生駒氏による領国支配の拠点となりました。
引田城跡の曲輪は総石垣によるもので、玄関谷から大手道と推定される通路を通り、北二の丸、南二の丸、本丸、東の丸の各曲輪が尾根を削平しながらU字形に計画的に配置され、貯水池である化粧池も整備されています。引田城跡は、播磨灘の要衝、国境付近という軍事・経済上の拠点に立地していることから、豊臣系大名の経済・軍事政策や領国支配体制を知る上で重要であり、またその縄張りや石垣は慶長年間の特徴を示しており良好に残っています。
また、引田には城とともに城下町がつくられました。引田には碁盤目状の町割や地名に城下町の名残をとどめています。引田城跡から望むまち並みの風景は抜群です。(東かがわ市教育委員会-播磨灘を望む城-引田城跡パンフレット)
▼引田城想像図(大正時代作成)
後世の想像図であるため、建物の構造の信ぴょう性は高くありませんが、曲輪の配置はほぼ的確にとらえています。
(引田城跡パンフレットより-東かがわ市教育委員会発行)
▼引田港側登山口、引田港側登山口
▼城山園地案内図、国史跡・引田城跡の案内板
▼引田城跡の散策スタート、狼煙台跡へ向かう(約390m)
引き続き、Vol.856-3/5をご覧ください。