Vol.791-4/5 遊び心。かがわ公立中学訪問記-24<05.坂出:3>(白峰) | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.791-3/5に続けてご覧ください。

 

▼雲井御所跡-3

 

▼雲井御所跡-4

▼雲井御所跡-5

 

▼雲井御所跡-6

▼雲井御所跡-7(中川観音堂)

 

 

更に足を延ばして白峯宮・高照院天皇寺へ

▼白峯宮へ向かう(約2.4km)、綾川(新雲井橋)を西に渡る-1(右に標識)

 

▼古いのロマンのまち さかいで ☞「雲井御所」、綾川(新雲井橋)を西に渡る-2

 

▼綾川の下流方向、新雲井橋-1

 

▼新雲井橋-2

 

▼新雲井橋から見る左(上流)方向、右(下流)方向

 

▼雲井御所跡を振り返る、綾川(新雲井橋)を西に渡る-3

 

▼綾川(新雲井橋)を西に渡る-4、新雲井橋を西に渡り交点を左折

 

▼綾川の西側沿いに南に進む、交点を右に下りる

 

▼田圃の中に「長命寺跡碑」

長命寺はその昔、450m四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ、長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。江戸時代の地誌『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』には、雲井御所はこの長命寺であったと記され、崇徳上皇の仮御所として自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が、すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。

上皇は、この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり、歌を詠まれたりして過ごされました。ここもまた あらぬ雲井と(雲井御所を参照)」の歌も、長命寺の柱に書かれたとも伝えられていて、長曽我部の兵火が及んだ際も、この宸筆の柱だけが一本立っていたと伝えられています。

今は、大正六年に建立された長命寺跡碑が、田の中に一本だけまっすぐ建っていて、かつての長命寺を偲ぶよすがとなっています。(坂出市HP引用)

 

▼林田町を西南方向に進む

 

▼姫塚が見えて来た、姫塚に寄る

 

▼後方に「長命寺跡碑」が見える、姫塚-1

雲井御所にお住まいになられたころ、崇徳上皇を気付かった綾高遠は、何かと不便があってはならないと、自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。やがて、上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが、幼くして亡くなられたと伝えられます。この姫塚はその皇女の墓であるとされています。

長命寺の西方にある田んぼの中にあり、現在はコンクリート壁に囲まれた中に石碑が建てられています。(坂出市HP引用)

▼姫塚-2

 

▼白峯宮へ進む、西庄町を南東方向に進む-1

 

▼西庄町を南東方向に進む-2、姫塚を振り返る

 

▼五色台のゆったりとした山相

 

▼西庄町を南東方向に進む-3

 

▼西庄町を南東方向に進む-4、左は西庄公民館

 

▼西庄町を南東方向に進む-5、左奥に西庄小学校

 

▼西庄町を南東方向に進む-6、左は西庄小学校の正門

 

▼西庄小学校の正門、西庄町を南方向に進む-1

 

▼西庄町を南方向に進む-2、県道33号線を南へ横断

 

▼県道33号線の右(西)方向、左(東)方向

 

▼JR予讃線・瀬戸大橋線の踏切を横断、横断後右折

 

▼JR予讃線・瀬戸大橋線の踏切の右方向、左方向

 

▼白峯宮へ進む-1

 

引き続き、Vol.791-5/5をご覧ください。