Vol.791-2/5に続けてご覧ください。
▼白峰中学校の東側を南に進む-4、東から見る学校-3
▼東から見る学校-4、学校の東側を南に進む-5
▼学校の南側を西に進む-1、東西角から見る学校
▼学校の南側を西に進む-2、南から見る学校-1
▼南から見る学校-2
▼学校の南側を西に進む-3
▼西南角から見る学校
足を延ばして雲井御所跡へ
▼雲井御所跡へ向かう(約0.8km)、県道187号線を南方向へ進む-1
▼後方の白峰中学校、県道187号線を南方向へ進む-2(右側の次の交点を右折)
▼県道187号線西側の交点を西に入る、林田町を西南に進む-1
▼林田町を西南に進む-2
▼郷師山と飯野山が頭出し、郷師山と飯野山のズーム
▼林田町を西南に進む-3、西招寺が見える
▼西招寺-2
▼西招寺-3
▼西招寺-4
▼西招寺-5
▼雲井御所跡へ進む、林田町を北西方向へ進む-1
▼林田町を北西方向へ進む-2、左奥に池田邸のモチノキとケヤキ
▼池田邸のモチノキとケヤキ-1
「池田邸のモチノキとケヤキ」は坂出市の自然保護公園である。
▼池田邸のモチノキとケヤキ-2、林田町を北西方向へ進む-3(次の交点を左折)
▼林田町を西南方向に進む-1、池田邸-1
▼池田邸-2
▼池田邸のモチノキとケヤキ-3、林田町を西南方向に進む-2
▼林田町を西南方向に進む-3(左に道標)、👈是ヨリ白峯寺ニ三十六丁
▼林田町を西南方向に進む-4
▼雲井御所跡へ進む-1、県道16号線を潜る
<雲井御所跡ルポ>
▼雲井御所跡へ進む-2、雲井御所跡に着いた
保元の乱に敗れ、讃岐の松山の津へ着船された当時、上皇の御所がまだ出来ていなかったため、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。この最初の御所について、『保元物語』は、松山の御堂に入られたと伝え、『白峯寺縁起』には、上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたと記されています。この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に、「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」というものがあります。この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。
その後,天保六年(1,835年)に、高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって、この雲井御所の跡地が推定され、現在の林田の地に雲井御所之碑が建立されました。(坂出市HP引用)
▼雲井御所跡-1
▼雲井御所跡-2
引き続き、Vol.791-4/5をご覧ください。