Vol.572-3/5 山のごとく泰然として。<史跡探訪-県都高松市編03:高松市仏生山町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.572-2/5に続けてご覧ください。

 

▼石階段を上る-2

 

▼石階段を上る-3

▼石階段を上り切った、境内

 

▼随神門から入り直す、社殿

 

▼随神門:由緒略記、「悲しく美しい人柱」の説明板

 

▼神饌殿、人形祓

 

▼神社から北展望

 

▼神社から西展望

 

▼神社から法然寺の展望、仏生山公園の展望

 

<歩行メモ>

▼ちきり神社から降りる-1

 

▼ちきり神社から降りる-2、降りた

前に見えるは県道166号線と仏生山小学校と法然寺である。

 

▼ちきり神社の石階段を振り返る、法然寺へ向かう

 

▼法然寺の総門前に着いた、先に「見返地蔵堂」に寄る

 

▼見返地蔵堂、地蔵菩薩坐像

 

 

<探訪史跡-4:法然寺>

浄土宗の寺院で、山号は仏生山。詳しくは、仏生山 来迎院 法然寺と称する。本尊は法然作と伝わる阿弥陀如来立像。法然上人二十五霊場第二番札所、さぬき七福神の大黒天

鎌倉時代前期の建永2(1207)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。

江戸時代前期の寛文8(1668)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)3年の歳月を要し移転・建立した。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした。本堂(明治40(1907)に再建)・三仏堂(別名:涅槃堂)・二尊堂・来迎堂・十王堂など現在も当時の建物が多く残っていたが、平成26(2014)113日に二尊堂が全焼で初の火災となった。 (Wikipediaより)

 

▼総門側から入る、総門を潜る

 

▼十全堂、十全(閻魔王)

 

▼十全-2

 

▼二河白道(にかわびゃくどう)

 

▼黒門を潜る、境内

 

 

引き続き、Vol.572-4/5をご覧ください。