Vol.572-2/5 山のごとく泰然として。<史跡探訪-県都高松市編03:高松市仏生山町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

 

Vol.572-1/5に続けてご覧ください。

 

<史跡探訪シリーズ-県都高松市:03く高松市仏生山町>

 

高松市仏生山町の史跡探訪の主たる狙いは、法然寺を訪れることである。

 

探訪ルートと探訪史跡ルート総歩数14,900

▼探訪ルート図、仏生山歴史街道

 

▼円光寺、ちきり神社

 

▼法然寺、仏生山公園

 

 

<歩行メモ>

JR端岡駅を出発、JR高松駅を出てことでんに乗り換え

 

▼高松駅前広場を通過、ことでん高松築港駅で乗車

 

▼ことでん仏生山駅で降車、仏生山駅をスタートし県道166号線交点へ向かう

 

▼高松市仏生山町-ルート3Ⅾ略図

▼県道166号線の交点へ進む、JA仏生山支店前を通過

 

▼大衆劇場「仏生山」を通過、法然寺裏山道「地蔵通り」入口を通過

 

▼変わった形のサボテンを発見、県道166号線の交点が見えてきた

 

▼県道166号線の交点を右折、周りの様子を窺ってる

 

▼御菓子処「アオイ堂」に寄る、豆大福などを購入

 

 

<探訪史跡-1:仏生山歴史街道>

(かわら)葺きの大屋根に白壁、細い桟(さん)を組んだ連子窓(れんじまど)や殿様を見下ろさないように低く作られた中二階の虫籠窓(むしこまど)。高松市南部の仏生山町には、江戸情緒が漂う貴重な町並みが残っている。仏生山は1668(寛文八)年に初代高松藩主が菩提寺(ぼだいじ)として法然寺を建てたことから、門前町として繁栄した。琴電仏生山駅前の市道と県道が交わる交差点から、滕(ちきり)神社までの約一キロの街道は、歴代藩主が墓参りに訪れたため、「お成り街道」とか「殿様街道」とも呼ばれた。街道沿いの約百三十軒の住居や商店の中には、現在も江戸から明治ごろに建てられた古い民家が点在しており、魅力あふれる景観を形成している。

 

▼仏生山歴史街道を往く-1、法然寺まで1kmの石標

 

▼円光寺に寄る、円光寺の山門前

 

 

<探訪史跡-2:円光寺>

この寺は永禄8(1565)の開基で、天和3(1683)この地に移った。元禄(16881704)の頃、火災で本堂などを焼失したが、そのとき境内のイチョウが水を吹きご本尊を守ったと伝える。こうした奇瑞に人々の信仰心は高まり、山門の五棟門など多くの建物が寄進された。なお、門脇のイチョウは高松市の名木に指定され、本堂・山門・鐘楼は平成11年から13年にかけて大修復が行われた。(現地説明板)

 

▼五棟門、イチヨウ:高松市名木

 

▼鬼瓦(大正15年葺き替え時)、鬼瓦(現在)

 

▼本堂、鐘楼

 

 

<歩行メモ>

▼仏生山歴史街道を往く-2:左に「うだち」、右に「生目さん」

 

▼仏生山歴史街道を往く-3、右に仏生山コミセン

▼「歴史と文化の町仏生山」の案内板、高徳寺へ寄る

 

▼高徳寺-1

真宗大谷派の寺院である。

 

▼高徳寺-2

 

▼仏生山歴史街道を往く-4、右に「虫籠窓」

▼仏生山歴史街道を往く-5:右「慈魚」と「門前町」、ちきり神社の登り口

 

▼ちきり神社へ寄る、ちきり神社-説明板

 

 

<探訪史跡-3:ちきり神社>

“ちきり”は漢字で書くと「滕」。織機で縦糸を巻くのに使われ、形は中央部分がくびれた棒状の道具である。その名の通り、織物に関係の深い神社である。祭神は稚日女命であり、『日本書紀』では天照大神の妹で、大神の衣服を織る神であるとされている。だがこの神以外にも、この神社の来歴を紐解くと、神となった一人の娘の存在が浮かび上がってくる。ちきり神社は現在仏生山の雌山の上にあるが、それは高松藩主の菩提寺・法然寺建立によって雄山から移転されたためである。だが、さらにその元をただせば、仏生山のそばにある平池(へいけ)の中州にあったされたとされる。この平池には人柱伝説が残されており、この人柱となった娘も神社に祀られているとされる。また“ちきり”という社名もこの人柱伝説から起こったものであるとも言われている。

 

平池は久安年間(11451151)に造られたため池であるが、治承2(1178)に災害によって改修を余儀なくされている。改修の指揮を執ったのは阿波民部大輔・田口成良であり、平清盛の命であったと伝えられる。この事業は相当の難工事であり、何度やっても堤が決壊してしまう。やむなく成良は神仏に祈願したところ、「明日の早朝“ちきり”を持った者が池のそばを通りがかる。その者を人柱に立てるがよい」との託宣を受けた。そこで役人が待ち構えていると、一人の娘が通りがかった。何も知らない娘は、役人の「何を持っておるか」という問い掛けに「ちきりです」と正直に答えたのである。役人は託宣通りということで、有無も言わさず娘を捕らえると、あらかじめ掘ってあった穴に投げ込んでそのまま生き埋めにしてしまったという。

 

平池はこうして改修を終え、決して堤が決壊しない池となった。そして娘を祀る社も建てられた。ところが堤の東端あたりに、なぜかいつの間にか隙間が出来てしまっており、そこから水が漏れ出るようになった。その水の流れをよく聞くと「いわざら、こざら」とつぶやく人の声に聞こえる。人々は、これは「言わざらまし、来ざらまし(言わなければよかったのに、来なければよかったのに)」という娘の言葉に違いないと噂しあったという。昭和42(1967)になってから改修がおこなわれて、問題の隙間はなくなってしまったという。

その後、人柱となった娘の冥福を祈るために、池のほとりに乙女の像が立てられている。

(日本伝承大鑑より)

 

▼石階段を上る-1

 

 

引き続き、Vol.572-3/5をご覧ください。