Vol.565-3/5に続けてご覧ください。
▼本篠城址の案内板と左前方の城山、本篠城址へ進む-2
▼左の山に大量のソーラーパネル、財田和泉守常久の墓の案内板に従い右道へ進む
▼財田和泉守常久の墓へ進む
▼あちこちと彷徨う-1
ここでも本篠城址への登り口と勘違いして多量の時間ロスをする。
▼あちこちと彷徨う-2
▼あちこちと彷徨う-3
▼元に戻り探索plan書を新たな目で確認、城宅の脇に財田和泉守常久の墓を発見
▼財田和泉守常久の墓-1
本篠城主の財田和泉守常久の墓と伝える五輪塔である。
民家の裏側の畑脇に御堂があり、この中にある。
▼財田和泉守常久の墓-2
▼検めて本篠城址へ、本篠城址へ進む-1
▼本篠城址へ進む-2
▼目当ての橋が見えた、橋の元に鎮座している龍王神社と伯母渕へ寄る
▼龍王神社-1
▼龍王神社-2、伯母渕(おばぶち)-1
伯母渕は、長宗我部軍の攻撃で落城したとき、伯母や女房たちが身を投げたといわれている。
▼伯母渕-2
▼本篠城址へ進む-3:橋を渡る、三差路を右折:標高120mの地点
<探訪史跡-3:本篠城址>
山城で、築城年代は定かではないが財田氏によって築かれたと云われる。
南北朝時代の建武4年・延元2年(1337年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦った。天正年間(1573年~1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していた。
長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまう。
天正6年(1578年)土佐軍は五千の兵を率いて本篠城を取り囲んだ。籠城する兵は財田常久をはじめわずか二百であったという。常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれた。
その後は長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となったが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となった。
▼本篠城址の案内板が有った!! 、登り口まだ約100mとの見立てだが
▼本篠城址へ進む-4
▼本篠城址の登り口に漸く到着した:標高126m地点、本篠城址の石碑と説明板
▼本篠城址の石碑、説明板
引き続き、Vol.565-5/5をご覧ください。