Vol.565-4/5 いちばん強いのは楽しむこと。<史跡探訪-西讃編03:三豊市財田町財田中> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.565-3/5に続けてご覧ください。

 

▼本篠城址の案内板と左前方の城山、本篠城址へ進む-2

▼左の山に大量のソーラーパネル、財田和泉守常久の墓の案内板に従い右道へ進む

 

▼財田和泉守常久の墓へ進む

 

▼あちこちと彷徨う-1

ここでも本篠城址への登り口と勘違いして多量の時間ロスをする。

 

▼あちこちと彷徨う-2

 

▼あちこちと彷徨う-3

 

▼元に戻り探索plan書を新たな目で確認、城宅の脇に財田和泉守常久の墓を発見

 

▼財田和泉守常久の墓-1

本篠城主の財田和泉守常久の墓と伝える五輪塔である。

民家の裏側の畑脇に御堂があり、この中にある。

 

▼財田和泉守常久の墓-2

 

▼検めて本篠城址へ、本篠城址へ進む-1

▼本篠城址へ進む-2

 

▼目当ての橋が見えた、橋の元に鎮座している龍王神社と伯母渕へ寄る

 

▼龍王神社-1

 

▼龍王神社-2、伯母渕(おばぶち)-1

伯母渕は、長宗我部軍の攻撃で落城したとき、伯母や女房たちが身を投げたといわれている。

 

▼伯母渕-2

▼本篠城址へ進む-3:橋を渡る三差路を右折:標高120mの地点

 

 

<探訪史跡-3:本篠城址

山城で、築城年代は定かではないが財田氏によって築かれたと云われる。

南北朝時代の建武4年・延元2(1337)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦った。天正年間(1573年~1592)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していた。

長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまう。

天正6(1578)土佐軍は五千の兵を率いて本篠城を取り囲んだ。籠城する兵は財田常久をはじめわずか二百であったという。常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれた。

その後は長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となったが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となった。

 

▼本篠城址の案内板が有った!! 登り口まだ約100mとの見立てだが

 

▼本篠城址へ進む-4

 

▼本篠城址の登り口に漸く到着した:標高126m地点、本篠城址の石碑と説明板

▼本篠城址の石碑、説明板

 

 

引き続き、Vol.565-5/5をご覧ください。