Vol.562-1/5に続けてご覧ください。
<さぬき史跡探訪シリーズ-瀬戸大橋の入口編:07く綾歌郡綾川町枌所>
綾歌郡綾川町枌所の史跡探訪の主たる狙いは、永富池を訪れることである。
<探訪ルートと探訪史跡>ルート総歩数15,300
▼探訪ルート図、永富池
▼瀬戸芸2016パートナーシップ事業「かがわ・山なみ芸術祭」、田万ダム
<歩きメモ>
▼バス停「北部コミセン前」で乗車、ことでん岡本駅で下車し電車に乗り換え
▼ことでん陶駅で下車し綾川町営バスに乗り代える、「陶駅前」で町営バスに乗車(所要時間30分)
▼バス停「夫婦神(みょうとがみ)」で降車 、夫婦神社へ寄る
▼夫婦神社-1
▼夫婦神社-2
▼永富池へ向かう、県道39号線を南西へ進み夫婦橋を渡る
▼夫婦神バス停~永富池のルート図
▼県道39号線を左折、貞重川沿いの山道を南方向へ進む
▼永富池へ向け山道を進む-1
▼永富池へ向け山道を進む-2
▼山道を右側の石仏、永富池へ向け山道を進む-3
▼永富池へ向け山道を進む-4
▼山道の右側の竹藪、左側の雑木林
▼永富池へ向け山道を進む-5
▼永富池へ向け山道を進む-6
▼永富池へ向け山道を進む-7
▼永富池へ向け山道を進む-8
▼永富池へ向け山道を進む-9
▼永富池へ向け山道を進む-10
▼永富池へ向け山道を進む-11、永富池の堤体が見えてきた
<探訪史跡-1:永富池>
永富池は、永富池萱原用水土地改良区が管理する灌漑用水専用のアースダムである。
明和年間(1764~1772 年)、幕藩体制の厳しい中で、錆田の凹地の地形に目をつけた枌所村の大庄屋の高尾知用(たかおともちか)が高松藩に築造許可を願い出て錆田池(さびたいけ)(後に永富池)を築堤した。錆田池の名は付近から流れ込む水が鉄分を含んでいるため、田んぼが赤錆のようになることから命名されたと伝えられている。
現在も堤防の裏面に赤錆色が各所に見られる。安永元年(1772 年)の秋に大水により錆田池の堤防が決壊し、幾度も藩へ改修を願い出たが、藩財政も行き詰まっていることから聞き入れてもらえず、文政12年(1829年)にやっと高松藩執政の寛政典を最高責任者に復旧工事が始められ、延べ99,800人もの人手を投入し、天保2年(1831年)に48間(86.4m)の堤防が完成した。池の名も「錆田池」から「永富池」に改められ、貞重(永富)神社を堤防の南の山上に祀り、年に二回神事を行い永く富み栄えるよう祈念している。
▼洪水(余水)吐放水路口、永富池に着いた
▼掲示板と記念碑、改修記念碑
▼注意掲示板、堤体を上る-1
NHK にっぽん縦断こころ旅 682日目(2017.11.08放送)
香川県綾川町 こころの風景「永富池」
2日目のこころの風景は、香川にたくさんあるため池のひとつ「永富池」。お手紙には、ため池への堤を登るため、足腰の弱ったお父さんをおんぶしたら、予想以上の軽さに驚いたと書いてありました。
手紙を読んだ正平さんは石川啄木の短歌を思い出しますが、林さんが女性であることに驚きます。
高松空港から走り、たどり着いた堤は想像以上に高く「ここをお父さんを担いで上がったとは・・・」と感心しきりの正平さん。登りきった先には、満々と水をたたえた永富池が静かに広がっていました。
父との忘れられない思い出の場所 香川県高松市 林さんからのお手紙
正平さん、みなさん、いつも楽しみにみています。私のこころの風景は、今は亡き父と行った綾川町粉所(そぎしよ)の「永富池(ながとみいけ)」です。晩年は、体調を崩しがちだった父が「小さいころに遊んでいた永富池にもう一度行ってみたい」と突然言い出しました。もう、何十年も前の記憶のはずなのに、父は助手席で「右・左」と田舎道を迷うことなく池までたどり着きました。永富池は、水不足の讃岐にたくさん作られたため池のひとつで、土で盛り上げた堤が高く、湖面までは道からずいぶん登らないとだめでした。私は、足腰の弱った小柄な父をおんぶして、その予想以上の軽さに驚きながらも、池のふちまでハアハアと息を切らせながら登りました。「ついたー」と思って顔をあげると、目の前に深い青色の美しい湖面がぱっと開けていました。二人ですわって、なにも言わずにずーっといたことを昨日のことのように思い出します。
下手で多くを語らない父でしたが、私か進路に悩んでいた時、勉強机にすわっていた私の後ろにそっとやってきて「大丈夫、大丈夫」と頭をなでてくれました。親に心配はかけられないなと、立ち直ったことを思い出します。正平さん、私と父の思い出の「永富池」をみていただけるとうれしいです。
▼堤体を上る-2
▼堤は近い、堤に到達
▼堤から見る永富池
引き続き、Vol.562-3/5をご覧ください。