Vol.552-1/4に続けてご覧ください。
さぬき史跡探訪シリーズ-中讃編:08く丸亀市土器町>
丸亀市土器町の史跡探訪の主たる狙いは、
田潮八幡神社と吉岡神社、吉岡神社古墳を訪ねることである。
<探訪ルートと探訪史跡>ルート総歩数13,200
▼探訪ルート図、田潮八幡神社
▼吉岡神社、吉岡神社古墳
<歩行メモ>
▼JR端岡駅を出発、JR宇多津駅で下車
▼丸亀市土器町-ルート3Ⅾ略図
▼田潮八幡神社へ向けてJR宇多津駅をスタート、JR宇多津駅前を東南に進む-1
▼JR宇多津駅前を東南に進む-2 、県道33号線の交点
▼県道33号線の交点を渡る、丸亀市に入る
▼県道33号線を南西に進む-1
▼県道33号線を南西に進む-2、県道33号線を左折
▼土器町東の住宅街を東南に進む
▼土器町東の住宅街を南方向に進む-1
▼左(東)方向に青ノ山、土器町東五丁目の住宅街を南方向に進む-2
▼土器町東五丁目の住宅街を南方向に進む-3
▼幹線市道へ合流、幹線市道の交点を左折
▼幹線市道を南下:青ノ山入口の標識、次の交点を左折
▼田潮八幡神社へ向かう
▼田潮八幡神社の鳥居が見えてきた
<探訪史跡-1:田潮八幡神社>
田潮八幡神社は青ノ山西麓に鎮座し、「太平記」にも名を残す古社である。青ノ山の上り口にあるので、登る前にお参りする人も多い。山麓にあることから、社叢は大変立派で、神社全体を緑が包んでいる。田潮八幡神社は、古くより鵜足郡津郷の土産として応神天皇を祭り 青野山西麓に鎮座 土器八幡宮と崇められてきた。南北朝時代貞治元年(1362)7月 細川頼之が 将軍足利義詮の命により、細川清氏を松山郷高屋の城に攻めたとき 出陣に際し 当八幡宮に戦勝を祈願した 清氏の西長尾 中院源少将雅平に対しては 陽動作戦を以て戦い 清氏を高屋の西林田の地に討ち取ったことは、太平記に詳述してある。全讃史には、はじめ源少将が攻めてきたとき 頼之はしばらく当社付近へ退却したが、社前の水田地帯一面に潮が満ち、敵軍を防いだので 田潮八幡宮と称したと伝えている。
讃岐国名所図絵によれば頼之は宇多津の館に凱旋ののち、社領を寄進し、祝勝の松を手植えしたが、栄えて数十歩の笠松となり、掛引の松 陰陽和合の松と呼ばれて世に親しまれたという。
境内には今に頼之の松の石碑があり 往時を偲ばせる。(神社境内の<田潮八幡神社由来>石碑より)
▼神社の前の交点、鳥居・狛犬・社号標
▼鳥居の扁額、参道-1
▼由来石碑、随神門
▼随神
▼随神門から境内、大師堂
▼参道-2、石段-1
▼石段-2
▼石段-3、狛犬と拝殿
▼拝殿
▼本殿-1
▼本殿-2
▼天満宮、神楽台拡張修復記念碑
▼社殿、境内を振り返る
引き続き、Vol.552-3/4をご覧ください。