Vol.551-4/5 人間の器。<史跡探訪-中讃編07:丸亀市福島・中府・柞原・郡家町> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.551-3/5に続けてご覧ください。

 

<探訪史跡-4:一里屋の灯籠と丁石>

この付近は丸亀城下より一里の位置にあって一里塚が設けられていた。道標を兼ねた石灯籠が立っているが、明治7年(1873)に建立されたもので、竿に北丸亀、西いよ/こんそうじ/ぜんつうじ、東高松、南金毘羅、と掘られている。また、この辺りは高松城下を起点とする伊予街道との交差点で、丁石には是より鳥居まで百丁と彫られている。

 

▼一里屋の灯籠と丁石、是より鳥居まで百丁:東 高松

 

▼北 丸亀、西 いよ-こんそうじ せんつうじ、南 金毘羅

 

<リャリ走行メモ>

▼神野神社へむかう-1、県道18号線を南に渡る

 

▼神野神社へむかう-2

 

 

<探訪史跡-5:郡家の両宮:神野神社、子神社>

神野(かんの)神社は『延喜式神名帳』にある「神野神社(讃岐国・那珂郡)」に比定される式内社(小社)の論社で、近代社格では郷社である。道を挟んで東側に皇子神社があり、当社を含め、両宮と呼ばれる。この地は郡衙があったところで、地名の郡家もこれに由来する。

神社誌によると神野神社は、繼體天皇二年(508)の鎮座、伊豫國神野郡(新居郡)の人、久留島某(和気氏の一族という)当地に移住し来たり、その祖伊乃神社を迎えて創祀し神野神社となる。

尚、和気氏の一族は、初めは神野郷(後真野郷)に移住し後に、郡衙のあるこの地に移ったとある。

皇子(おうじ)神社の建築年代は江戸時代末期で、宝憧寺の鎮守神として建造され、上池の築造で鎮坐地が水没するため原型のまま現在地へ移築された。尚、資料によると、宝幢寺の鎮守神として建造されたのは、天文年間(15321554)とあり、移築は1672年頃とある。

 

▼神野神社に着いた、神野神社-社号標

 

▼神野神社-狛犬と鳥居、祈願の橋と随神門

 

▼神野神社-延喜式内二十四社之一の説明板、随神門

 

▼神野神社-随神

 

▼神野神社-境内、手水舎

 

▼神野神社-御旅所と拝殿、拝殿の扁額

 

▼神野神社-本殿、境内社

 

▼皇子神社へ向かう

 

▼県道4号線を横断する、郡家両宮の看板

 

▼松並木の参道

 

▼皇子神社が見えてきた、皇子神社-鳥居と狛犬

 

▼皇子神社-拝殿、本殿の説明板

 

▼皇子神社-社殿

▼皇子神社-本殿

 

▼八代荒神

 

 

<リャリ走行メモ>

▼皇子神社の境内から見る飯野山、郡家小学校へ向かう

 

▼宮池

 

▼大池の堤体を進む、左()側に矢野池

 

▼矢野池と大池の中堤坊を進む、右(西)側は大池

 

▼大池

 

▼前方に郡家小学校、左は郡家幼稚園

 

▼郡家小学校-「出会いの塔」、宝憧寺池へ向かう-1

 

引き続き、Vol.551-5/5をご覧ください。