Vol.551-2/5に続けてご覧ください。
<探訪史跡-2:寿覚院>
寿覚院(じゅかくいん)は、浄土宗京都知恩院末寺の寺院で山号は光明山、本尊は阿弥陀如来、圓光大師讃岐二十五箇所霊場第十九番札所である。1641年(寛永18年)丸亀藩主山崎家治が本誉南廓を開山に招き山崎家の菩提寺として建立したのに始まる。
観音堂は、1971年(昭和46年)8月に丸亀市指定文化財(有形文化財)に指定された。
大きさは正面の全長が5.92m(正面中央の柱間:2.08m、両側の柱間:それぞれ1.92m)、側面と正面と同じ長さの表面三間・側面三間である。向きは本堂の南側、院正面入って左側、東向きに建つ。(Wikipediaより)
▼右折して寿覚院へ、山門と寺標
▼境内、石灯籠
▼法然上人御尊像、市指定文化財の説明板
▼観音堂-1
▼山門前の観音堂の説明板、観音堂-2
▼山門脇の灯籠
▼山門脇の道標
<リャリ走行メモ>
▼旧金毘羅街道へ進む、こんぴら湊まるがめ街道の案内図
▼道標-すくこんひら 左こんひら道、南条町を南下-1
▼金毘羅御利正-田宮坊太郎墓所の標柱、田宮坊太郎墓
▼南条町を南下-2 、南条町の石灯篭-1
▼南条町の石灯篭-2
▼こんぴら湊まるがめ街道の案内標識
▼中附町を進む、田宮源八之旧跡
▼こんぴら街道標識と百四十丁石灯籠、百四十丁石灯籠
▼中附町を南下
<探訪史跡-3:百五十丁の起点石と一の鳥居>
中府は丸亀城下と城外とを分ける出目との接点付近であり、街道は城下を通過させず、城外を通過させ、中府口では出口番所が設けられていた。百五十丁石の起点石の道標は明治4年(1767)に京・大坂の商人が奉納した道案内立石で「従是金毘羅町口江百五十丁」などと彫られているが、この道標は川口(丸亀湊)付近にあったものという説が強いと思われる。
中府の大鳥居(一の鳥居)は、明治4年に長門国(山口県)の赤間関の菊屋平七という商人の外、堺、奥州などの熱心な人々が、金比羅宮に寄進したものである。
この鳥居は、花崗岩で造られており、高さ6.6m、柱の間4.5mである。額には「金比羅宮」とあり、西の柱には「天下泰平」、東の柱には「海陸安穏」と刻まれている。
▼百五十丁石の起点石と一の鳥居、「従是金毘羅町口江百五十丁」-街道起点石
▼一の鳥居、一の鳥居の扁額
▼一の鳥居-長州赤間関・奥州野辺地の奉納、発起世話人・気配人
<リャリ走行メモ>
▼中附町を南下:県道205号線を横断、平成の丁石:五丁-1
▼平成の丁石:五丁-2
▼県道33号線を東に横断し県道204号線交点を右折南下、県道33号線を南下-1(山北町)
▼県道33号線を南下-2、南下-3(三無電気)
▼県道33号線を南下-4(丸亀城南郵便局)、平成の丁石:二十丁-県道204号線から右側へ
▼平成の丁石:二十丁と柞原の常夜灯籠、柞原の常夜灯籠
柞原の常夜燈は県道の拡張工事で現在地に移転された。
台座には右「こんひら道」などが彫られている。
▼南下する-1、国道11号線を南に横断する
▼南下する-2 、田村池に寄る
▼田村池
▼南下する-3、田村(正面寺)の自然石灯籠
自然石で造られた燈籠だが、現在は個人の家の庭に移されている。
この付近に二十九丁石と三十一丁があったそうだ。
▼南下する-4(郡家町)、左(東)側に庄ノ池と飯野山
▼南下する-5、右(西)側に大麻山と五岳山
▼南下する-6(高松自動車道を潜る)、高松自動車道を潜る
引き続き、Vol.551-4/5をご覧ください。































































