Vol.464-2/2 玉露はなぜ高い?<JR沿線を歩く-12:讃岐塩屋駅~丸亀駅> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.464-1/2-2に続けてご覧ください。

 

JR沿線をてくてく歩くさぬき路シリーズ>

12:[予讃線] Y11讃岐塩屋駅Y10丸亀駅

当区間は、鉄道線距離:1.6km/沿線歩き距離:1.7kmである。

 

JRさぬき路線図、実行コース図(実歩数:4,100)

 

▼讃岐塩屋駅名標とホーム(丸亀駅方向)

 

 

<沿線歩きメモ>

▼讃岐塩屋駅をスタート、本願寺塩屋別院へ向かう-1(8000系特急電車が通過)

 

▼本願寺塩屋別院へ向かう-2(左側は線路)

 

▼本願寺塩屋別院へ向かう-3(左折)

 

▼本願寺塩屋別院へ向かう-4(線路の高架を潜る)

 

 

akijii立ち寄り地>本願寺塩屋別院

塩屋別院の創建は1615年に播州赤穂から製塩業を営む門徒30戸が移り住んだことに始まる。この時、ともに移転した道場が塩屋別院の前身となった。当時この地を統治していたのは生駒正俊だったが、生駒氏は初代親正が1587年に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて以来、454年にわたりこの地を治め、高松城築城や城下の整備を行った。初代親正は元播州赤穂の城主で3代目となる正俊の時、人々が移住して赤穂の製塩法をもたらしたのもこの縁によると言われている。讃岐は雨量が少なく、頻繁に干ばつに見舞われ、米作には不向きな土地柄だったが、瀬戸内の豊かで広い遠浅の沿岸に恵まれ、製塩にとっては非常に良とされた気候であった。やがて綿・砂糖とともに讃岐三白としてこの地の経済を支えた。赤穂から移住した門徒たちは、塩田の住まい近くに新しい道場を建てた。境内を囲む石積はその頃廃城となった丸亀城の残石を使用したとも言われている。

 

1731年、3代目住職智観が後継住職を決めぬまま病死し、後継をめぐって寺族と門徒たちが二手に分かれて争う事態となった。決着は容易につかず、藩の指示で本山に出訴して裁断を仰ぐため代表が京に向かっている。4か月後教法寺に本山の御堂衆の明圓寺が派遣された。

実質的に本山召し上げになり3年後の1734年、藩の承認を得て別院(御坊)となるに至った。

こうして塩屋別院となり、讃岐一円の門徒の拠点として新たな歩みを始めた。
 

▼本願寺塩屋別院が見えてきた、本願寺塩屋別院に着いた

 

▼外塀、大門

▼大門の右扉と彫刻、左扉と彫刻

 

▼本堂

 

▼鐘堂、親鸞上人の立像

 

▼西門、境内

 

▼本堂の前から大門方向を見る、院外から見る

 

<沿線歩きメモ>

▼六郷橋へ向かう-1

 

▼六郷橋へ向かう-2

 

▼六郷橋へ向かう-3(予讃線の高架橋に戻る)、予讃線の高架橋に添い東北へ進む

 

▼六郷橋へ向かう-4

 

▼六郷橋へ向かう-5

 

▼六郷橋へ向かう-6

 

 

<当区間のONE POINT

西汐入川に架かるJR鉄橋と県道21号の橋が当区間のポイント地点である。

▼六郷橋に着いた、六郷橋(西汐入川)

 

▼六郷橋(西汐入川)の上流、六郷橋&JR予讃線橋梁と西汐入川の下流

 

▼丸亀駅へ向かう-1、 下りの普通電車が通過

▼高架橋の向こうに藤井中・高校

  

<沿線歩きメモ>

▼丸亀駅へ向かう-2

 

▼丸亀駅へ向かう-3、右前方に丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

 

▼丸亀駅へ向かう-4、丸亀駅が見えた

 

▼丸亀駅に到達したakijii、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀