Vol.403-1/3に続けてご覧ください。
<さぬき/てつたび:ことでん駅周辺シリーズ>
08:《[志度線] S08 八栗駅》
石の町牟礼と八栗寺を中心に取材した。
<駅メモ、所在地、駅名標と駅舎&ホーム>
庵治石(あじいし)で有名な牟礼町や庵治町への最寄駅で、駅敷地内に庵治石のオブジェが飾られている。
相対式2面2線ホームで駅舎に近いホームが2番線、かつては上り方面にも信号機が設置されて、折り返し列車が存在した。
▼所在地図
▼駅名標とホーム&電車
▼2面2線ホーム、駅前のオブジェ
<周辺施設・地域メモ>
八栗寺、イサム・ノグチ庭園美術館や洲崎寺などがある。
▼牟礼北小学校
▼八栗ケーブル-1
▼八栗ケーブル-2
▼源氏池
▼八栗寺(お迎え大師、山門)-1
▼八栗寺(聖天堂、本堂)-2
▼八栗寺(大師堂、鐘楼)-3
▼八栗寺(多宝塔、本坊)-4
▼八栗寺(中将坊、中将坊の下駄)-5
<名所・旧跡(遺跡)>-- 神櫛王墓(かみくしのみこのはか)、史跡「源氏の総門」
神櫛王墓(かみくしのみこのはか)
県道36号線、八栗駅の南交差点名の元となった遺跡で、讃岐の国造の始祖神櫛王の墓所と旧牟礼町教育委員会の看板に書かれている。
神櫛王は、景行天皇の皇子(4世紀頃)として『日本書紀』に記され、墓は宮内庁により陵墓として香川県高松市牟礼町牟礼の神櫛王墓(公式形式は上円下方墳)に治定されている。
この墓は明治2年(1869年)に高松藩知事の松平頼聰が再営した。
毎年、王の命日と伝える10月20日に「正辰祭」と称する祭が開かれている。
墓は、かつては誰が葬られているか不明ながら「王墓」「青墓」と呼ばれる小山で、村民の墓地として利用されていた。ところが、何時しか神櫛王の墓と語られるようになり、時が進むと頂上にある星を刻んでいるという立石が墓石とみなされ、ついには小山全体があたかも古墳のように造作されることになった。
▼旧牟礼町教育委員会の看板、県道36号線八栗駅の南交差点標識板
▼入口、宮内庁管理の看板
▼石段、王墓
史跡「源氏の総門」「佐藤継信の墓」
◇源氏の総門
神櫛王墓の北約200m、旧庵治街道の傍らにある。寿永2年(1183)9月、平氏は安徳天皇を奉じて、屋島の行宮(内裏)ができるまで六萬寺を行在所とした。この時、ここに門を構えて海辺の防御に備え、また上陸の拠点とした。総門はその遺跡である。源氏が平氏軍を急襲した際、ここはたちまち源氏軍の占領するところとなり、故に里人はここを源氏の総門という。高松藩主松平頼重(英公)は衡門(かぶきもん=冠木門)を建ててその古跡を表した。現在の総門の南東に木戸(城戸)と呼ばれる集落がある。そこで、ここに総門があったのではないかとする説がある。英公は世人に広く知らせるため、今の街道筋に建てたのではないかと言われている。
◇佐藤継信の墓
源平合戦の際、義経の身代りとなって戦死した佐藤継信の墓で、寛永20年、松平頼重公が新しく墓石を建てて、その忠死を称えた。昭和6年5月、継信30世の孫・山形県人佐藤信古氏が更に大修築を加えて面目一新した。”胸板をすえて忠義の的に立ち”
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