新居宮池の風景
夕焼けが映える宮池。
Walking & Potteringの風景
香色山ミニ88ケ所めぐり。
<どう捉え、どう考えるべきか>
良寛-13/15:他人を非難する前に、まず自分の襟を正したか
千年以上も過ぎた松や児手柏(このてかしわ)の梢に、一日中もの悲しい風が吹きわっている。その下に死んで久しい人が埋められているが、ためしに誰の墓かと尋ねてみる。しかし墓に刻まれた姓名は、すりへってから長くたち、その子孫さえ墓の主を知ることができない。狐や狸は茂った草むらの中に身をかくし、ふくろうは枯れ枝で鳴いているというありさまだ。 (良寛全詩集-233)
人は必ず死ぬものである。そして、残されたその墓石に刻まれた文字も摩滅して、誰の墓だったかその子孫さえ知らないということになる。変わらぬものは、松やこのてがしわの緑の葉っぱ、そこを通りぬける風の音。しかも、キツネ、タヌキ、フクロウなどは昔と変わらず息づいているということになる。このような大自然の営みの一端でしかない人間の存在は、ほんのちっぽけなものだということを良寛さんはしみじみと感じたのだった。ではそこで良寛さんは何を言いたかったのだろう。
人の一生は百年もたてば、賢い者であろうが愚かな者であろうが、みな同じようにこのような状態になる。ああ、もうやめよう。もう何も言うことはない。錫杖(しゃくじょう)を鳴らしながら、わたしは墓地からひきかえして来たことだった。 (良寛全詩集-233)
人が死んで百年もたてば、賢かったか愚かであったか、その違いをかき消すように誰であったかも不明な状態となる。良寛さんは僧侶だったが、死後の極楽とか地獄の世界などについて一切ふれていない。
死んでしまえば、地獄も極楽もない。生きている間のたとえ話にすぎない。ただ朽ちはてて忘却のかなたに葬り去られる、と死後の世界のことにはふれていないのだ。生きているとき他人を非難して自分の正しさを誇っても、それが結局何になるのだと考えると、むなしくなる。他人を非難する前に、まず自分の襟を正したか。それが永遠に正しいことだといえるのか。ただの行きがかりのメンツで言わなくてはいけない気になったから言っているにすぎないのではないか、とわたしはこう思う。
<Flower arrangement>
A seasonal flower
◇みろく自然公園に咲いていた山茶花(さざんか)
開花時期は10月中旬~翌2月上旬頃で、花の少ない晩秋から初冬にかけて咲き出す。長い間咲き、正月を過ぎても楽しめる。椿(つばき)の漢名(中国名)の「山茶花」が、いつの頃からかこのサザンカの名前として間違って定着した。読みは「山茶花(さんさか)」→「茶山花(ささんか)」→「さざんか」というぐあいに変化したらしい。日本が原産地で、江戸時代に長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師ツンベルクさんがヨーロッパに持ち帰り、西欧で広まった。学名も英名もサザンカ。花言葉は「困難に打ち勝つ、ひたむきさ」である。
◇引田まち並み通りで出会った風船唐綿(ふうせんとうわた)
南アフリカ原産で、とげとげをもつ丸い実の形がなんともユニークだ。とげとげ部分は柔かくて痛くない。初冬になると実がカパッと割れ、中から綿毛とタネが出てくる。花言葉は「隠された能力」(風船唐綿の花)、「いっぱいの夢」(風船唐綿の実)である。
今に息づく その時 あの言葉 その時 歴史が動いた
万が一の時になって、思いをめぐらすのではなく、常日頃から非常の事態に備え、一生懸命にわが身を生かす心構えを養うべきである 浜口 梧陵
1858(安政5)年12月 濱口梧陵、村人とともに津波を防ぐ堤防を完成させる
幕末、日本は3度の大地震に見舞われるが、幕府・諸藩は江戸の復興を最優先し、地方に目を向けなかった。震度六強の揺れに襲われた紀州広村(和歌山県)では、現ヤマサ醤油7代目当主の濱口梧陵が、津波襲来から村人を救うため、ワラの山に火を放ち安全な高台に避難させる。厳しい被害を受けた村への支援を紀州藩に求めるが拒まれ、梧陵は資産を投げ打って、大堤防の建設に取り組む。自らの手で村を再建しようという呼びかけに村人たちは立ち上がり、地震発生から4年後、ついに堤防が完成。その88年後、再び大地震で押し寄せた津波から、堤防は村を守る。
<Akijii展、想い出の風景-Ⅰ(四国のみち編:16)>
今報の想い出の写真は「修験道と峠のみち」です。
引き続き、Vol.366-2/3をご覧ください。