今報の雑学 わずかな銭(ぜに)のことをなぜ「ビタ一文」という
和銅元年(708)8月10日、銅銭・和銅開珎が初めて使用された。
「あんなやつにはビタ一文もやるものか」とか「ビタ一文持っていない」などといった言い方をする。
この「ビタ一文」のビタは「めた」(滅多)がなまったものだといわれ、どうしょうもないという意味。
文(もん)は昔のお金の単位。すなわち「ビタ一文」とは、すり減った形がくずれたりしている粗悪なお
金のこと。室町時代になると商業が盛んになり、銭貨の使用が大幅に増えたため、中国の銭が使
われるようになった。その中のひとつ、明の永楽通宝は立派な銅銭で、精銭などと呼ばれ大いに
重宝がられたが、勿論この銭だけでは足りないので、質の悪い私鋳銭や渡来銭、つまりビタ銭も用いら
れた。ところが良貨と悪貨では当然良貨が好まれ、同じ一文でも、ビタ銭は4枚で永楽通宝の1枚の価
値しかなかった。こうしたことからビタ一文といえば役に立たない金→わずかな金額というような
意味になっていった。
<Flower arrangement>
国であれ会社であれ家庭であれ、あらゆる組織はそこにいる長がどういう一念(一筋の思い)を持っているかで決まる。それが全てと言ってもいい。
ある賢者は、すぐれた長には二つの共通条件があると云い、その一つが「修身」で、二つ目が「場を高める」、この二点に意を注がない長は長たる資格がないと断言する。
一つ目の「修身」は、気まま、わがまま、ムラッ気を取り去り、さらに公平無私、自己犠牲、先義後利を率先垂範することだが、長が私意をほしいままにして、組織が健全に成長するわけがない。
次の「場を高める」だが、長たる者は自分のいる場に理想を掲げ、そこに集うすべての人をその理想に向け、モチベート(興味を起こさせる、やる気を起させる)していく人でなければならない。
松下幸之助氏の言葉、まさに至言である。
「適切な目標を示さず、社員に希望を与えない経営者は失格である」
また、長の一念について安岡正篤(まさひろ)師が次のように明示している。
「偉くなることは必ずしも富士山のように仰(あお)がれるためになるのではない。なるほど富士山は立派だけれど、それよりも立派なものは大地である。山を載せて一向に重しとしない。限りなき谷やら川やらを載せて敢(あ)えて厭(いと)わない。常に坦々(たんたん)としておる。この大地こそ徳である。われわれもこの大地のような徳を持たねばならぬ」
最近(2014/1)逝去された船井幸雄(経営コンサル)さんの言葉を付記する。
「40余年経営コンサルタントをやってきて分かったことがある。
どうしたら経営がうまくいくか。それはそこにいる人が命を懸けている。それが第一条件。いるところに命を懸ける。これが大事」
長として欠かせない姿勢であり、一念である。
新居宮池とWalking & Potteringの風景
東家から宮池の遊歩道を見る。
京極大橋と太助灯籠。
A seasonal flower
JR高松駅広場に咲かせているポーチュラカ
Portulaca(ポーチュラカ)はラテン語の「porta(入口)」の縮小形の「portula」が語源で”小さな扉”の意味、熟した実が裂け開く様子からとのこと。開花時期は7月上旬~10月下旬で、長い間咲き続ける。
ブラジル原産で全世界の温帯、熱帯にある。
暑ければ暑いほどよく繁る。強健な草花で、強い日照りにも耐えて次々と一日花を咲かせる。アロエやサボテンなどと同じ貯水能力と、気孔が夜開くという特殊な光合成能力がある。
ポーチュラカ」の別名は「花滑り莧(はなすべりひゆ)」。
滑り莧、の改良種で、花がきれいなところから。
色がさまざまあって美しい。
<Akijii展、再展示>
引き続き、Vol.274-2/3をご覧ください。