Vol.248-1/2に続けてご覧ください。
<四国八十八か所讃岐巡りシリーズ>
17:《道隆寺》
第七十七番 桑多山(そうたざん)道隆寺(どうりゅうじ)明王院(みょうおういん)
本尊:薬師如来 開基:和気道隆 宗派:真言宗醍醐派
真言:おん、ころころ、せんだり、まとうぎ、そわか
御詠歌:ねがひおば佛道隆に入りはてゝ菩提の月を見まくほしさに
所在地:〒764-0022 香川県仲多度郡多度津町北鴨1
<歴史・由来>
仁王門をくぐると、ブロンズの観音さんがずらりと並んで迎えてくれる。創建ころのこの付近一帯は広大な桑園で、絹の生産地であったようである。縁起によると、和銅5年、この地方の領主、和気道隆公が桑の大木を切り、小さな薬師如来像を彫造し、草堂を建てたのが寺の初めといわれる。
道隆公は、周囲5m近い桑の大木が、夜ごと妖しい光を放っているのを見た。この光を怪しみ、矢を射ると、女の悲鳴があり、乳母が倒れて死んでいた。嘆き悲しんだ道隆公は、その桑の木で仏像を彫り、草堂に安置して供養すると、不思議にも乳母は生き返ったという。大同2年(807)、道隆公の子・朝祐公は唐から帰朝した弘法大師に懇願し、90インチほどの薬師如来像を彫造、その胎内に父・道隆公の像を納めて本尊とした。
朝祐公は大師から授戒をうけて第2世住職となり、先祖伝来の財産を寺の造営にあてて七堂伽藍を建立、寺名は創建した父の名から「道隆寺」と号した。第3世は弘法大師の実弟にあたる真雅僧正(法光大師)が嗣ついで二十三坊を建立し、第四世の円珍(智証大師)は五大明王、聖観世音菩薩像を彫造して護摩堂を建立、次の第5世聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となっている。高僧が相次いで寺勢は栄えたが、貞元年間(976~78)の大地震による堂塔の倒壊や、康平3年(1060)の兵火、また「天正の兵火」に遭うなど興亡をくり返しながらも、法灯を守り続けている。
<略縁起>
この地の荘園を所有していた和気道隆(和気道善の弟)が天平勝宝元年(749)桑畑で怪しい光を見付け矢を射た。その時誤って乳母を射止めてしまい、その供養のために桑の木で薬師如来像を刻み、堂宇を建立して安置したのが始まりです。その後、2代目住職、朝祐法師が七堂伽藍を建立して、開祖の和気道隆から寺号を道隆寺として名付けました。
後に、弘法大師がこの地を訪れ、薬師如来を刻み、道隆公が刻んだ薬師如来を胎内仏として納め本尊とし、第七十七番札所として定められた。
3代目住職は弘法大師の実弟法光大師、4代目住職は智証大師、5代目住職は理源大師と高僧が続き栄えました。その後地震や兵火等で衰退を繰り返しましたが、代々の住職の尽力で再建されております。
<境内>
大きな山門をくぐると左手に観音様が並び、正面に本堂があり、大師堂は右手にある。観音像の数は270体余りある。
本尊薬師如来は「目なおし薬師さま」といわれ眼病に御利益があり、日本初の眼科医を祀った潜徳院がある。
寺宝に智証大師が刻んだ五大尊、弘法大師筆の五大尊画像があり、星曼茶羅図は国の重要文化財となっている。
▼山門、境内
▼本堂、大師堂
▼潜徳院
本堂の左裏手。江戸後期の典医・京極左馬造公の墓所で、眼病にご利益があると信仰されている。
▼境内の観音像
西国、秩父、坂東の百観音のほか、観音霊場として名高い各地の本尊、水子供養の観音像や交通安全の観音像など255が建立されている。
▼弘法大師像、七ヶ所まいり寿老人
--今報了--











