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ホテルから。酔って帰って暫くして、部屋を見たら散らかしてる。雑多な人間やなあ、っておもってしまう。出張中だが、学びがいっぱいあって良い経験してるなあ、って感じている。農業について書きたいんだけれど、また帰って報告します。
自分のブログを読んでいて気付いたこと。

「誤字脱字、変換ミスなどがたくさんあるなあ~」

反面そのおかげで、毎日更新が続いているせいかもしれない。

まるで、書きっ放し状態。

少しは、見直しもしようと思う。


昨日、農業科教員っていうことをカミングアウトしたので、ここ何回かは、農業や農業教育、農業高校、農業科教員について書きたい。


私は、はっきり言って農業という産業や職業に誇りを持っているし、農業自営もしてみたいとも思う。

確かに、小学高学年から中学校くらいまでは、家が農業をしているってことに、引け目を感じていたが、農業高校へ通い、そこで同じような境遇の仲間と出会い、徐々に意識も変わり、誇りを持てるようになった。


それだけに、農業を軽視するような言動には腹が立つ。(と言ってるが、嫌いな野菜もある)

現在の日本において、農業という産業のおかれている立場についても。


で、よく生徒に言っていたことだが、

「日本で生活する上で、衣・食・住のうち、1つだけ選べって言われたら、どれ取る?」

あるいは、

「人間の三大欲求、食欲、睡眠欲、性欲のうち、生きていくためには、どれ取る?」って。

食以外を除外されても厳しいものはあるが、まず“食”でしょうっと。

私の中では、食を供給する農業こそ、大事にしなければって思っている。


日本をやっつけるには、ミサイルはいらない。

食糧をストップすれば良いだけだ。

日本の食糧自給率は、現在30数%。

私は危機感を抱きます。

輸入がストップした場合(あり得ないと思うが)、どうなるか?

その約30%を国民で、均等に分けたらいいか?

飽食に慣れた日本人が、腹3部で満足できるか?

健康には、腹8部って言うが、やっぱり満腹を得たいと思う。


また、均等に分けてもらえるかというと、そうでは無い。

30%の富裕層が、手に入れるのだ。

我が家の経済状態では、30数%しかない食糧を得ることはできない。

(一面的に書いたので、異論はあると思いますが)


そんな大切な産業である。

だから誇りも抱いている。

高校生にも伝えたい。


でも、ネガティブになってしまうことが起こっている。

親の跡を継いだ同級生や1つ上の先輩が、経営が困難になり、自ら命を絶ったのだ。

地域でもそういう方の話を聞くことがある。

同級生は、遠方より奥さんをもらい、かわいい盛りの小さい子供2人を残して逝った。

すごくやりきれない想いがしたし、複雑な心境でもある。


農業高校の農業科教員として、後ろを振り返ってもしょうがないので、そういうところも踏まえた上で、前向きに農業を捉えて、農業教育を進めていきたいと思う。

(具体的内容については後日)


彼のことを思い出すと、ついついネガティブワールドに吸い寄せられていく。

が、農業に明るい未来がくることも信じている。

その時を手繰り寄せる役割を農業科教員は担っている。

昨日は、2年目の研修生活を送っているってことを告白した。

書いた後で思ったこと。

「そんなに改まって告白って言うようなことかぁ?」って。

他の人にとって見れば、他愛もないことに思えても、書き始めた頃の私にとっては言えなかったことである。

行動に移してみて、感じることってたくさんあると思った。

なので、やっぱり行動に移すことって大事。

一歩で、私は「2年も研修させてもらった」ということを肝に銘じ、プレッシャーに感じるくらい頑張らないといけないとも思っている。


次の告白事項は。

それは、担当教科について。

これも今まで黙っていた。

敢えて触らないようにしていた。

見た目からも何の教科か、想像しづらいようではある(そもそも見た目も教師らしくないと言われる。よく似てるって言われるのが、ナイナイの岡村。動作まで似ているらしい。)が、少しマニアックな教科でもあるので、誰も言い当てることがでない。


それは、農業。

言っちゃった。

これは、「農業科教員で、2年目の研修を受けている」って言うと、全国で私一人じゃないかと思って、「正体ばれるじゃん」って思ったから。

だけど、ばれてもいいやって思えるようになった。

なぜなら、そのうち「顔と名前も出せるくらいになったる!」とも思っているから。


大体、農業科の存在自体が薄い。

だから、

「高校の教師です」っていうと、

「教科は?」

「農業です」

「農業ってどんなことを教えるの?」って聞かれる。

すごく認知度が低いようで、農業科教員としては、すごく寂しい

(認知度が低いのは、我々の責任でもあるが)

農業教育については、たくさん語りたいことがあるので、ばらしたからには、これからは色々書けそう。

本当に農業教育って素晴らしいんだから。

語り尽くせるかなあ?

文章能力が欠けるため、伝えきれなかったら悲しい。


取り敢えず、告白事項は、昨日と今日の2日間でおしまい。

また何か、うち明けることがあったら、Part3を書くだろう。
このブログを始めてはや5ヶ月。

「やってて良かったなあ」とつくづく思う。

最初は、足跡的なものを残したい、今の自分の想いを残し、後々の怠けた自分に、「こんな考えを持ってい

たこともあるんだ」って、戒めにしたいとう想いが強かったのだが。

正直、書くことによって、こんなに気づきが得られるとは思わなかった。


このブログの中で、敢えて書かなかった事実がある。

今回は、Part1。


私は、“研修中の身”だということは、何度も繰り返してきたが、“2年目”だということは紹介していなかったと思う。

「な~んだ」って思われる方もいるだろうが、私には紹介しなかった理由がある。

2年も研修してる教師なんか、あまりいない→人物が特定されるのではないか?という恐怖。

2年も税金食いつぶして研修して、このレベルか!?って思われる恐怖。

以上2点かな?隠した理由ってのは。


でもカミングアウトした理由。

まず、「少々、人物が推測されてもいいや」っていうのと、「わかりっこない」っていう気持ちになってきたっていうのがある。

だけど、意を同じにする、自分のことを分かってもらいたいって人には、「ブログ書いてるよ」とは言ってるけど。

知り合いなどに、正体が判明して「あいつこんなこと考えているんだ~」って思われるのが、なぜか嫌で・・・。


余談

ある会社なんかすごい。

会社のHPに社員のブログを載せてる。

しかも顔写真、実名付き。

これって究極の会社案内だと思う。

見習いたい要素はある。


ゆくゆくは、というより理想は、顔写真・実名なんかも載せることだ。

それは、もっともっと自信をつけてから。

今の自分ではまだ時期尚早。

精神に異常をきたしてしまいそう。



2年間も研修させて貰えるなんて滅多にないこと。

しかし、その裏では、研修と言えども給料は貰える。

私の変わりに臨時教員を雇用している。

それって結構莫大な金額になり、それに見合う研修の成果を出さなければならない。。


にも係わらず、「これくらいしか勉強していないのか!?」って県民・国民の皆さんに叱られそうで。


しかし、私の中では、2年やったからこそ見えてきた、学ぶことが出来たっていうのがたくさんあって、2年研修させてもらって本当に良かったと思っている。

学校現場を離れて、客観的に学校、教師というものを見つめ、ゆっくりと流れる時間の中、テーマに沿って考えることは1年でできたとは思う。

それだけでも、十分価値があることだと思うが、2年目になると、じゃあ具体的に何をしなければならないか?なんてことを考えることが出来た。

実際、私は2年目に入ることで、キャリアカウンセラーの勉強ができたし、コーチングセミナーにも参加することが出来た。

2年研修できたおかげで・・・っていうことが結構たくさんあり、本当に良かったと思う。


「必ず、このご恩は現場で、生徒に返しますので」っていう自信?が付きつつあるので、カミングアウトしてしまった。


結局、後ろ指を指されるのがまだまだ怖い人間なのでしょう。

しかし、少しずつ解消されているので、今はこれで良しとする。

大地震が、そのうち我が地方に来る。

っていっても予言者でも何でもなく、よく言われていることを言ってるまでだが。


以前に聞いて、驚愕した教えがこれ。

「起こる確率ってのは、30年後の間に30%っていう感覚ではなくて、毎日、毎時間、毎分毎に、神様が中の見えない箱の中から、毎回10個のうちボールの中から3個の“地震ボール”を抽選しているようなもの」

だって。

アイスクリームの“当たり付きバー”よりも高い確率じゃん!


その人が言っていたけど、「降水確率30%だったら、多くの人は傘持って行かないよね?でも持って外出する人もいる。地震で明暗を分けるのはそこ。」だって。

要するに、“いつ起きても大丈夫”って用意している人は大丈夫だが、そうでなくて用意していない人は、危ないそうだ。

性格的に、私って後者。

分かっているなら、準備しろよって感じ。


どうせ起きるものなら、早く起きろよって思ったりもするが、子どもが幼い今は勘弁して欲しい。

せめて、子供たちが、自分で考えて行動できるようになるまでは。


どうしていいかわからず、泣き叫ぶ子どもの姿は見たくない。

その時、私が動ける状態であれば、何とかなるかも知れないが。

いなくてとか、動けなくてとかで、どうしょうもない状況は勘弁して欲しい。

準備しとかなくては。


というような話になったのも、井戸水が出なくなったのを妻が心配し始めたからだ。

1週間前に、屋外にある井戸水が出る蛇口をひねったときには、土色の濁り水が出ていて、今日は全く出なくなってしまった。

妻は、「地殻に異変が起きている」って。

私は、汲み上げるポンプの異常や管が割れているとかが理由だと思っているが、あんまり妻が心配するので、考えてみた。

外の井戸水が出ないと不便。

車を洗う、靴を洗う、子どもが水浴びする等ができなくなるからだ。

井戸の修理なんかしてくれる業者ってあるのかなあ?

とりあえず水道屋さんか?

ここのところ、毎日更新が続いている。

嘘みたい。

カレンダーの赤字プラスアンダーラインが続いていると気分がいい。

見た感じもすごくいい。

だからやめられない。


反面、「続けなければならない」っていうビリーフも芽生えてきたりして、プレッシャーに感じたりもする。

調子に乗って、連続更新することによって、私の中にビリーフが生まれたのだ。

3日に2日更新の時は、全くなかったが。


このビリーフって、かなりやっかい。

ほどいてやると、また“ぐうたらakinbo”になってしまうからだ。

これくらいのビリーフは持っていた方がいいだろうし、自己鍛錬にもなるだろうってとこに落ち着くが。

(精神衛生に支障をきたすようなら、毎日更新は諦めなければならないが。)

まあ、目標をもって頑張っている人は、当然のごとく、これくらいの負荷は自分にかけているだろう。

まだまだ青いな、akinbo


これってどうなんだろう?

「毎日、毎日更新しているんだけど、しんどいです。ストレスになっています。どうしたらいいですか?」なんて、相談されたら、何て答えます?

私の場合、答えは持っているけど、似たような事例で相談されたら?


「やめたら?」って思うけど、それは言ってはいけないでしょう。

それから「頑張れ!」もダメでしょう。

やっぱり、このあたりは、「答えは本人が持っている」を信じて、うまく質問し、聴くに徹するかな?


あらま、自分で問いかけておいて、自分で答えを導いてる。

こういうのを何て言うんだ?

セルフコーチング?

セルフカウンセリング?

何か違うような気がする。


一人バカ?

一人上手?っぽい気がする。


来週出張なので、途切れるのは明白。

気楽に行こうっと。

昨日のオリオリさんのブログに、もの申したい話が載っていたので、それについて書きたい。


オリオリさんは教育委員会の方ですが、そこへ届いたメールらしい。

原文はこちら→ http://ameblo.jp/international-tourism/

この方は、キャリア教育をやらなければならないことに憤りを感じています。


しかし、進路指導とキャリア教育について、分かっていません。

「違い」なんて言っている時点でアウト。

違いませんから!

進路指導は、キャリア教育の中核をなしています。

簡単に言えば、進路指導を広げたものがキャリア教育なのです。

この方は、このことが分かっていないばかりに、「また何かやらされる」と思っているネガティブな方です。


前にも書きましたが、キャリア教育=職場体験と思っている教師が多い。


小・中学校で1つや2つの職場体験をしたところで、職業意識が芽生えるとも思えない。

また、自分の好きな仕事が見つかることもないだろう。(原文)


私も芽生えるとも見つかるとは思いません。

でもね、小・中学生はロボットか?

どんな職場へ行こうが、働いてみたら、そこで何かしらの感情を抱くでしょう?

それを大事にし、育まなければならないと思いますし、それがキャリア教育だと思っています。

(そのためにも教師にはキャリアカウンセリングのマインドが必要)


なので、目的が違っています。

好きな仕事を見つけるためではなく、価値観を形成するきっかけ作りのためだと思う。


今まで、そんな経験がないから、いざ就職となった時に、非常に狭い選択肢しか持たないから、困るのではないか。

例えば、看護士を目指す人。

動機は「何となく」なんて言う人はいないと思う。

それまでの経験の中で、自分や家族がその献身的な看護を受けて、それに「感銘を受けて」とか、経験則から動機って始まる場合が多いと思う。

逆もしかりで、反面教師とする場合もあるだろうし、「自分には向かない」なんていう感情だって抱くこともあるだろう。

それで、十分ではないか?

そこから始まるのではないか?



学校教育の中心である学習能力や人間関係能力の育成が中途半端なものになっていかないように、肝に銘じなければならないでしょう。(原文)


だからね。

学習能力や人間関係能力の育成もキャリア教育の目指すところだって!



ごめんなさい。

まじめに書こうと思っていたのですが、あまりにも、この方が可哀想だし、あきれて書くのがアホらしくなってきましたので、やめます。

自分の考えを整理するためにも書いた方がいいのでは・・・と思って書き始めたのですが。


多分この人は、ほとんどの教員が思っていることを「代弁してやった!」と正義の味方的な気分でいらっしゃるだろうけど、

残念。

「私はやる気なしのダメ教師です」って宣言しているも同然。


だけど、私も研修を受けずに現場にいたら、この先生と同じ考えだったかも知れない。

あっぶね~。


研修生活も残り1ヶ月を切り、学校へ帰って何をしようか?

また、何ができるだろうか?なんて、よく考える。


で、思いついたのが、コーチングセミナーを保護者向けに行うことである。


コーチングセミナーに何回か通うこととで、自分でも少しはファシリテーター役ができるのではないかと思うようになったからである。

それを生徒だけでなく、他にも広めたい、という想いからだ。

PTA総会や保護者懇談会でもコーチングを実施できれば、と思っている。


保護者は疲れていると思う。

なのに、休日に子どものために、学校へ足を運んでくれている。

(毎回、参加者が少なく、それを増やしたいという狙いもある)


で、参加して得るものと言えば、「子どもの学校生活がわかった」とか、「学校の方針がわかった」というくらいで、特に参加して良かったと思えるようなことって少ない。

だから、次回も積極的に「参加しよう」という想いが少なくなるのではないか?


日々の仕事で、疲れているにもかかわらず、休日に学校へ行って、話を聴かされるばかりで、挙げ句に「もうちょっと勉強を頑張らないと○○へは行けないですねえ」なんてことを言われる。


また行きたくなると思いますう?

私なら、あまり思わないと思う。


なので、

PTA総会や保護者懇談会では、保護者の方に話してもらう。

保護者主体で、もっと保護者のためになる、保護者のストレスを減らすものに変えるのである。


講演形式ならば、子どもを育てる「親と子のコミュニケーション」に焦点を当てたりとか、クラス懇談では、保護者同士がロールプレイで、あいさつしたり、コーチしあったり。


保護者との個人面談では、教師は成績のことなんか、そっちのけで、ひたすら保護者の話を聴く。

ネタが切れたら、子どもの長所をひたすら語ってもらうとか。

子どものいいところを、保護者自身の口から語ってもらうことって重要だと思う。

言っているうちに、普段あまり考えたことがなかった我が子の長所が見えてきたり、肯定的に見ることができるようになったりなどするからである。


どんどん喋ってもらって、ストレス軽減、気づきを促す。


実践できると、帰路につく頃には、すっかりいい気分でないか?


これらを実施するためには、全教員にカウンセリング・コーチングマインドが必要だ。


って考えると、保護者対応が難しくなったと言われるが、

原因は「保護者の考えも多様化してきているにもかかわらず、教師の保護者像は均一で、なおかつ教師は保護者の考えを共感的に聞けず、学校や教師の論理で話をする」ためではないか?


私は現場に帰って、「聴く」に徹しようと思う。

(教師はティーチングもしないといけないが。)


先日、スーパーへ子供たちと遠足のお菓子を買いに行った時のこと。


子供の教育?躾上?ありがたい言葉をかけてくれる人に出くわすことがある。


私は基本的に家の中では、躾や教育することってあまり無いと思っている。

(家庭内における親の役割は、認めてあげることや基地的存在であることだと思っている)

その点、家の外には学びの機会や躾の材料がいっぱいある。

(確かに、「それぐらいのこと家庭でしとけ!」って言われそうな事例もあるだろうが)


だから「躾や教育は家庭から」っていうのは、家庭(家族)の教育力を指した言葉であって、家の中で完結するものではないと思っている。


レジを済ませた子供(二男)が、

「パパー、ありがとう!って言えたよ~」(家庭内では教えていますから)

「すごいなあ~。大きい声で言えたの~?言われたレジのお姉さんも嬉しかっただろうねえ?」

なんて会話をしていると、

近くにいた初老のおばさんが笑顔で、

「えらいねえ、ありがとうって言えたの~?」と褒めて(承認か?)くれた。


大変有り難い言葉だと思った。

私が承認(評価)を加えても子供は嬉しいようだが、他からの承認(評価)があると、効果はさらに上がると思うからだ。


だからこの経験を生かして、次からは、もっと大きな声で、他にも聞こえるような声で、子供を認め(褒め)ていこうと思う。


こういう事例は、我が子だけでなく、学校でも使える。

褒めるときは大きな声で、叱るときは小声で。

人を褒めている言葉を聞くのは気分いいし、同僚からは「へえ~、あの生徒って、そんな良いところがあるんだ」って思わせるなど、波及するし、

他の生徒には「俺も褒めてもらいてえ~」って思わせるだろうから。


だけど、残念ながら、教師って反対のことをしがち。

私もそんな傾向があったと思う。

叱る時には、他への見せしめ的な意味合いを兼ねて、あえて周りにも聞こえるような声で言う。

生徒も賢いから、分かった振りをして、従順な態度を見せる。

だけど、生徒は本心では、腹が立っていたり、早くその場から立ち去りたいと思っていたりする。

叱られた本人の気持ちに寄り添っていないわけだ。

これでは、教育効果なんて上がるわけがないし、信頼もされないだろう。


人を育てるっていうのは、難しいようで、簡単なんだけどなあ。

だけど、実際は本当に難しい。

なぜなら、人は自分が可愛く、守ろうとし、自分の自己有用感を満たそうとするからだ。


人は、自己有用感を渇望している。

だから、他人の自己有用感を満たす言動をしていけば、効果もすごく上がるのに。


だけど、やっぱり難しい。

という結論。

だけどやらなくちゃ、いけないこと。


(遠足のお菓子買いに行ったことから、ここまで話が広がるとは...)


今日、研修場所から駐車場まで、自転車に乗って帰りながら思ったこと。

「随分、自転車や歩行者は車の運転手から見落とされているなあ」ということである。


横断歩道のあるT字路から出てくる車や十字路での右左折の車、巻き込み車などで顕著だが、こちら(自転車)が、車の挙動を見ていなければ、接触するだろうと思われる場面に必ず出くわす。

もちろん、道路を走る自転車も軽車両であるから、注意義務はある。

しかし、一度も車に乗ったことが無く、車の運転手の死角になりやすい(見落とされやすい)箇所に疎い者にとっては、注意しきれない部分もあるだろう。


「我が先」とか、「自己中心」とかが増えて、嫌な日本人が増えつつあるように思う。(もちろん私も含めて)


「思いやり」って言葉も失われつつあるように感じるが、交通弱者を守るのはまさしく、「思いやり」の心だと思う。


このようなことを意識し始めたのも、我が子を交通社会に送り出さなければならないと、観念し始めたからでもある。

例え、交通法規を守っているからと言っても、自分の命は守れない。

「自分の身は自分で守る」をしっかり教えなければならないと、つくづく感じた。

「社会が弱者を守る」という風潮は、この先蔓延しないのだろうか?


本来なら、そういう交通弱者を大切にする、気遣うマインドは、ハンドルを握った時から持っておかなければならないことである。

子供の成長や僅かな時間ではあるが自転車通勤は、運転歴も長くなり大事なものを見失いかけていた私に、気づきを与えてくれた。


そう言えば、自転車の「傘さし運転はダメ」というのがあるが、これって誰の視点?

確かに傘を差して自転車を運転していると、バランスが悪くなったり、次の動作が送れたり、視界が狭くなったりする。

自分の命は自分で守らなければならないから、御法度行為だと思う。


ただこれって、車の運転者側が、自転車にそんな乗り方されると危ないからダメって言ってるんじゃないの?って穿って考えたりしてしまった。