「想定外の構図」で実現した「二人のたかこさんのコラボ」 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

先日から何度か予告しましたように、この12日に名古屋国際会議場センチュリーホールで「第45回日本造血・免疫細胞療法学会総会にともなう市民公開講座」というものがあり、その第二部でさい帯血移植の体験者という立場でシンガーソングライター岡村孝子さんがゲスト出演し、骨髄バンク発祥時からの中心人物である全国骨髄バンク推進連絡協議会副会長の大谷貴子さんとトークイベントを繰り広げました。

 

わたしも「二人のたかこさん」の初の協演とあっては見逃すわけにはいかないと、新幹線に乗って現地まで日帰りし、しかとこの目とこの耳で、コラボの様子を確かめてきました。

 

 

 

わたしが「貴子さんと孝子さんのコラボ」があったらいいなと思っていたのは、実を言えば30年も前からのこと(!!!)。

 

そう思いついた根拠は、まず第一に、大谷貴子さんと岡村孝子さんのあいだには「名前の読みが同じ」「学齢が同じ」「愛知県での生活歴が長い」という三つの共通点があること。もっとも、それだけならたいして希少なことでもありませんが、もう一つ、お二人をつなぐ珍しい要素があったのです。それは中堀由希子さん。

 

大谷貴子さんを中心とした運動が結実して、まず民間組織としての東海骨髄バンクが発足したのが1989年、それに続いて、国への請願運動が実を結んで公的骨髄バンクである財団法人骨髄移植推進財団(後の日本骨髄バンク)が発足したのが1991年の12月でした。ドナー募集が始まったのは明けて1992年から。その年にみずから白血病患者であることをカムアウトし、病身をおして全国行脚し、ドナー登録を訴え続け、力尽きるまで闘った若い女性がいました。それが愛知県岡崎市の中堀由希子さん(当時20歳)。

 

中堀由希子さんの活動をいつもそばに寄り添って支えていたのが大谷貴子さん。そして中堀さんのお宅は岡村孝子さんの実家のご近所で、そのせいもあって彼女は孝子ソングに親しんでおり、カラオケではよく孝子ソングを歌っていたという逸話があります。

 

中堀さんのHLA型は日本人の中ではかなり希少な型で、発足まもない日本の骨髄バンクの中では一致者がみつからず、検索範囲を海外まで広げた結果、ようやくアメリカに一人だけ一致者がいることがわかりました。その人から骨髄採取の同意が得られ、日本初の、海外からの空輸による骨髄移植が実現したのが1992年11月13日、彼女の21歳の誕生日の前日でした。

 

でも、闘病すでに二年を過ぎて体力が落ちていた中堀さんは、移植後のGVHDを乗り越えることができず、残念ながら翌年1月12日に亡くなりました。

 

その訃報を聞いてわたしは「骨髄バンクはまだまだ未熟だなあ」と感じたものです。もっと早くドナー登録が普及していて、ドナープールが10万人、20万人といった規模に達していれば、中堀さんのような希少なHLAの持ち主でも早期にドナーをみつけることができて、助かったかもしれないのに……と。

 

 

それにつけても、人道的な気持ちがあって、中堀さんの実話に感動してくれるような有名人が、普及啓発に協力してくれたらいいのにと思ったとき、ごく自然に心に浮かんだのは中堀さんの同郷人である岡村孝子さんの姿。

 

以来わたしの心の中には「大谷貴子さんと岡村孝子さんのトークイベント」なんていうものがいつも思い描かれていましたので、長い時間を経てであれ、それが想像どおりに実現したのは、感動でした。

 

ただし、途中に展開されたのは、当初はまったく思いもしなかった「想定外の構図」。

 

わたしが思い描いていたのは、健康人としての岡村孝子さんが中堀由希子さんの話などを耳にして、「わたしも普及啓発に一役買えるなら……」と申し出てくださるという構図。まさか、まさか、まさか、ご本人自身が当の病気に罹られ、生死の境をさまようような苛酷な闘病生活を経験したうえで、同じ病気、同じ治療(造血幹細胞移植)の体験者の立場で大谷貴子さんと同じステージに上がるなんて、……絶句です。

 

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