愛媛玉串料訴訟控訴審での白石春樹知事の発言 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

引き続き、愛媛玉串料訴訟控訴審高松高裁での審理の記録をご紹介します。今回は被告である白石春樹知事に対する尋問。質問者は原告側代理人です。各引用箇所の最後につけてある数字は、『司法鬼神に屈す――愛媛玉ぐし料訴訟控訴審記録――』(愛媛玉ぐし料違憲訴訟団1993年8月刊、非売品)での掲載ページです。

 

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平成3年(1991年)10月17日速記録

  白石春樹被告への尋問

 

 ――昭和五三年八月一五日に、愛媛県主催の戦没者追悼式が行われておりまして、あなたが次のようなあいさつをしております。その一部を読み上げますのでお聞きをいただきたいと思います。後出の甲八〇号証になります。「大化の改新以来、隣国である中国から文明・文化を取り入れた際、菅原道真は『和魂漢才』を唱えました。明治維新後、とうとうと流れ込んで日本の夜明けをもたらした西洋の文明・文化に対して、福沢諭吉は『和魂洋才』を叫ぶことを忘れなかったのです。敗戦の憂き目を経験した私たちは、今日、果たして、これら先人の遺訓を生かした真の政治をやっているということがいえるでしょうか。その基本となるものは、何と申しましても、国家のため、国民のために殉じられました英霊に対し、いかにお応えし、日本の魂である英霊の精神をいかに伝承してゆくか、ということであります。そのためには、私は、靖国神社を国家が護持することであり、この悲願が達成されない限り、『日本の戦後は終わらない』と思うのでございます。私たちは、あくまでも、この悲願が貫徹でき、そして、政府が勇断をもって、日本に、日本人精神を吹き込んでくれる、そういう事態の一日も早からんことを望む次第でございます。この大戦で、大きな被害を受けました中国と平和友好条約が締結できたことは、誠に喜ばしいことであります。これによって英霊の願いであった『東洋平和』がかなえられたわけでございます。今後、私たちは、英霊をいつまでも顕彰し、英霊の精神を伝承していくために国家護持の悲願達成をめざして頑張って参りたいと思うのでございます。どうか靖国神社で、天皇・皇后両陛下のご臨席のもとに、この追悼式が行われるような日が一日も早からんことを祈念するとともに、英霊のご冥福を祈り、心からなる追悼の意を表します。」こういうあいさつですが。

 内容は忘れてしまいましたが、しかし、あのときには必ずあいさつせないかんようになってますから、あいさつしたことがあると思いますね。

 

 ――あなたが愛媛県知事として、このように靖国神社の国家護持の悲願を達成するために、頑張ってまいるというふうに力強くあいさつされておられる、宣言されておるんですが、そのことと、他府県が次々と公費による玉串料の支出を取り止めても、一県になっても公費による玉串料の支出を続けるというふうに議会で答弁されている、このことを併せて考えますと、これは公費による玉串料の支出を定着させて、靖国神社や護国神社の国家護持とか、あるいは都道府県の護持、こういうことに道を開こうと考えておられた、その結果であるというふうにしか理解できないのではないかと思うんですが、いかがでしょうか。

 追悼式には遺族の方がたくさん来ておられます。したがって、私も知事としての行政官であるとともに政治家でございます。したがって、そういうようなふうに熱烈な言葉遣いをしたかもわかりませんが、お話のような、靖国神社国家護持ということは、私はできんことだと思うておりました。しかし、それができんことだというようなことを言うたのでは、遺族の方に非常に気の毒でございます。私はそういうような意味からも、できんでも一生懸命に国家護持の運動をするということは、あの方々のいわゆる生きがいだというふうに考えておりましたので、強く主張をしたかもわかりません。(168-169)

 

 ――昭和二六年に文部大臣官房宗務課長が、石川県民生部長あてに、戦没者の埋葬などについてという問い合わせに対する回答の中にですね、戦没者に対する慶弔のため、神社の主催する慰霊祭に知事などの公務員が出席し、弔辞を述べ、神饌を贈るなどは差し支えないが、慰霊を伴う場合であっても、恒例祭に出席することは、特定の宗教団体、それ自体が行う布教儀式に公的要素を導入して、政教分離の原則に反するような疑義を起こさせることがあるから、なるべく避けることが望ましいという回答があるんですが、このような文部大臣官房宗務課長からの通達があるというふうなことは、当時は知っておられましたか。

 今はよく知っとりますけど、その時分はどうであったか、記憶はありません。(177-178)

 

 ――中曽根総理が公式参拝されたときに、あなた、議会で、費用を公のお金から出すのはもちろん当然だし、参拝の方式もね、いわゆる従来の二礼二拍手一礼、これも問題ないという趣旨のことをおっしゃってませんか。

 わからんですね。しかし、中曽根総理が公式参拝してあげたということはいいことだと、私は常に思うておりました。知事の時分から。とにかく、知事じゃからというて、個人じゃからというて、使い分けるですね、これが一番、ずるいやり方だと思うておりました。(181)

 

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いかがですか?

 

注目に値するのは「靖国神社国家護持ということは、私はできんことだと思うておりました。」という発言です。

 

昭和53年というと1978年。つまり、靖国神社法案が最終的に廃案になった4年後です。廃案の翌年、せめて首相が8月15日に参拝してくれれば……という日本遺族会からの期待に応えて三木武夫首相が「終戦記念日靖国参拝」を実行しましたが、「一私人として」と言い訳しながらの参拝だったため、靖国支援者たちは納得せず、以後、「それを公式なものにしてほしい」という「公式参拝運動」が盛んになります。

 

もともとこの「公式参拝運動」は、国家護持はもう当分、実現しそうにないという悲観に立ったうえで「せめて……」という動機から始まったものです。白石知事もそのあたりのことはわかったうえで、支持者の手前、いまだに国家護持の可能性があると期待を抱かせるようなリップサービスをしていたわけです。