愛媛玉串料訴訟控訴審での大江志乃夫証言(2) | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

引き続き、愛媛玉串料訴訟控訴審高松高裁での大江志乃夫証人の証言の抜粋をご紹介します。証人の応答部分だけ写せば意味がよくわかる箇所については、いちいち質問は写しません。この日の質問者は被告側代理人です。各引用箇所の最後につけてある数字は、『司法鬼神に屈す――愛媛玉ぐし料訴訟控訴審記録――』(愛媛玉ぐし料違憲訴訟団1993年8月刊、非売品)での掲載ページです。

 

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第六回口頭弁論速記録

 平成3年(1991年)5月28日

  証人 大江志乃夫

 

 ――証人調書の七五項を見てくださいませんか。そこに「九段の母」という歌の「両手合わせてひざまずき 拝むはずみのお念仏 はっと気付いてうろたえました 倅許せよ田舎者」という一節を引用されておりますね。

 はい。

 

 ――それから九二項に、靖国神社宮司〔Akemi注:戦時中宮司だった陸軍大将鈴木孝雄のこと〕の「殊に遺族の方は、其のことを考えませんと、何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えを持って戴かなければならぬのですが、人霊も神霊も余り区別をしないというような考え方が、いろいろの精神方面に間違った現われ方をしてくるのではないかと思うのです。」という言葉を引用されておりますね。

 はい。

 

 ――これらから見れば、神社側から見るのと異なりまして、遺族側から見れば、戦没者を祭神として畏敬崇拝の対象としていると言うよりは、息子や父親あるいは戦友を死者として偲んでいると言っていいんじゃないでしょうか、今の言葉から言えば。

 いや、必ずしもそうは言えないと思います。というのは、これは、もし必要があれば証拠として提出してもいいですけれども、富山県の砺波市の遺族会が編纂したものがございまして……。

 

 ――いや、今の鈴木さんのこの意味と前回証言された「九段の母」、これらを見ますと、今私が申し上げましたように、遺族から見れば、要するに祭神という畏敬崇拝の念じゃなくて、自分の息子あるいは自分の父親が死んだという、死者という考えが強いから、このような、はっと気が付いたとか、あるいは鈴木さんが言う、神社宮司がそんなこといけませんよというふうは警告を発したんじゃないですか。

 ええ、もちろんそういう側面がありましたけれども、ところが、遺族が実際に靖国神社に参ったときに、この靖国神社にいるのはやっぱり自分の息子たちじゃないんだということを感じさせられて、靖国神社に参っただけじゃ会いそうにない、京都に御本山参りを計画してくれということで、遺族会からそういう要求が出て御本山参りをもう一度やりなおしたというような、具体的な遺族の感覚を書いたものが富山県の砺波市の遺族会誌の中に収録されております。(140-142)

 

 ――先ほど御証言いただいたんですけど、県からの公金の靖国神社への支出が絶大な効果を発揮しとると、こういうことですよね。

 はい。

 

 ――そうすると、中止したこともまたこれ大きな効果が発生しとると思うんですが、どういうような大きな効果が発生しとるでしょうか。

 これやっぱり中止したことは、特に靖国神社国家護持運動の大きな力になっておりました日本遺族会に対しては、非常な打撃を与えていると思います。(142-143)

 

 ――そして、それは先生の目から見れば誠に望ましいことだと、こうお考えですか。

 そうです。元々昭和三三年に始めたということが違法、違憲の疑いが非常に強いですから。むしろ違憲だと言ってもいいと思いますが、やめるのは当然でありますけど、元々始めたのが、遺族会や全国護国神社の靖国神社国家護持運動とほぼ軌を一にして公費支出が始まったということでありますから、これは当然やめた直接の影響はこの国家護持運動に大きく響いてると思います。

 

 ――靖国神社自体に対してはどういう効果があったでしょうか。

 靖国神社にとっても、地方公共団体が直接に支出しなくなったというのは、これは靖国神社の宗教的活動という意味から言うと、著しくその効果が減殺されたと判断していいと思います。(143)

 

 宗教施設の内部において宗教的祭祀として行うということは、これは死者儀礼としての慰霊祭とは違うと。神社祭祀としてはそれは行われないと。そういうような死者儀礼としての慰霊祭は行われないと。これはあくまで神社祭祀、つまり、特定の宗教的祭祀として行われているものであると。(147)

 

 で、しかも、これは自衛官合祀訴訟で国側が主張したのが、いわゆる神社では神を祭るということが宗教的行為の核心をなしているということをはっきり主張しておりますんで、このいわゆる神を祭る、いわゆる神社祭祀というのがこれが宗教的行為の核心であると。これを死者儀礼である慰霊祭であると解されたら、神社神道そのものが成り立たなくなってしまう。(148)

 

 神社祭祀としての慰霊という場合と、それから我々が普通言う慰霊という場合、言葉は同じですけれども実質的に意味する内容が違っていると。(148)

 

 ――それでですね、先生は、国家護持運動につきましてね、先生の意見書の六五ページを見ますと、日本国憲法全体の見直しを要求する運動であると、こういうようにお書きになっとんですが、靖国神社としては、憲法内において、なんとか国家護持運動を実現させようと努力しておると、いうこと自体を否定されるんでしょうか。

 まず、第一に祭祀の形式を変更しないことというのが大前提になっておりますが、したがって特定の宗教である神社神道の神社祭祀、しかもそれは、まさに神社神道の核心部分をなす宗教的行為と主張されている神社祭祀の形式を変更しないということを前提にしているわけですから、これは、まさに憲法と相いれない。それを実現しようということですから、これは当然そういう結論になると思います。(150)

 

 ――日本国憲法の枠内で、国家護持運動を実現させようと努力しておったということはご存じですか、という質問です。

 だから、その枠内でといいうのが、神社祭祀の形式を変更しないということ、という前提がある以上は、自己矛盾ですね。到底枠内では実現できないと。だから、現実にいろいろな問題を指摘されて、神社法案が挫折したという結果になったわけです。(150)

 

 ――日本国憲法全体の見直しを要求することはですね、反憲法運動だとおっしゃるけれども、憲法自体がね、よりよい憲法を求めて改正することは、当然認めとんじゃないでしょうか。

 認めておりますけれども、特にその中で普遍的な原理として認められている基本的人権に関する条項ですね、これは見直しの対象にはなりえないと思います。(151)

 

 ――わたしが言ってるのはね。制度的保障としての政教分離を、もっと緩やかな方向に改正することは、改正手続を踏む限りにおいて許されるという考えは誤りか、正しいか、それだけ言ってください。

 近代社会の原理では誤りだと思います。(152)

 

 

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