愛媛玉串料訴訟控訴審での一審原告側最終準備書面 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

引き続き、愛媛玉串料訴訟控訴審高松高裁での審理の記録をご紹介します。今回は一審原告側最終準備書面の抜粋です。各引用箇所の最後につけてある数字は、『司法鬼神に屈す――愛媛玉ぐし料訴訟控訴審記録――』(愛媛玉ぐし料違憲訴訟団1993年8月刊、非売品)での掲載ページです。

 

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控訴審における

  一審原告側最終準備書面

   (1992年2月12日)

 

 PWC(米国・戦後政策委員会)の理解によれば、靖国神社は国家神道以外の何者でもなく、靖国神社から国家神道的性格を除去したならば、もはや「宗教」の名にも値しない純然たる国家主義神社であるという、その点では他の大部分の神社や伊勢神宮とさえ異なった性格の施設と理解されていた。(218)

 

 終戦連絡事務局がGHQに提出した文書「神社問題対策」をめぐっての第二回会談(一九四五年一二月四日、GHQバンス大尉、終戦連絡事務局曽祢益ら)で、靖国神社に関するやりとりがあった。これによれば、靖国神社を「非宗教的な戦没者追悼のメモリアル的施設として残す」のではなく、「一個の神社たる宗教施設」として存続する途を選択したのは、日本政府自身であった。GHQはこれに対して積極的な意見を主張することなく、日本政府の方針を容認したのである。(219)

 

 一九五一年には、宗教法人令が廃止されて、認証制による宗教法人法が施行され、一九五二年九月三〇日、靖国神社は東京都知事の認証を得て宗教法人法上の単立宗教法人となり、「宗教法人靖国神社規則」と「靖国神社社憲」を制定した。(219)

 

 「内務省史」第二巻によれば、「当時、神宮、官国幣社以下神社の祭祀に対して、勅使ないし地方長官が参向して神饌幣帛料を供進することは、天皇統治権の一たる祭祀大権の発動とされ地方長官の供進使としての事務は、地方公共団体の固有事務ではなく、国家からの委任事務と解せられていた。(226)

 

 神饌幣帛料の供進者は当該祭祀の祭主であることを意味しており、戦前、指定護国神社において、知事が祝詞や祭詞を奏することが行なわれていた。(227)

 

 戦前の地方長官が果した役割をそのまま継承するものであって、本件支出の宗教性は誠に顕著であると言わねばならない(227)。

 

 護国神社の春秋の慰霊大祭は、「慰霊」という文字が使われてはいるが、神社祭祀としての大祭であることに疑問の余地はなく、死者儀礼としての慰霊祭とは本質的に異なるものである。(228)

 

 玉串奉奠が神饌幣帛の供進を神前であらためて象徴的に再演する儀礼であることを意味している。(231)

 

 国家神道体制において重要な意味をもっていたのは、神社の社格であった。その社格は国または地方公共団体のどの機関が神饌幣帛料を供進するかによって規定されていたのである。(231)

 

 そして、国家神道時代には、神社祭式で玉串の奉奠をするのは神饌幣帛の「供進使である地方の長官と実際に御幣物を神前に供える神官の長官だけであり、ほかの参列者が拝礼するにあたって玉串を「奉奠」することは許されなかった。又、神饌幣帛料を供進する主体は法規によって定められており、それ以外の極く限られた人が神饌幣帛料を献じた場合に「玉串料」とか「供物料」と称していたものである。(232)

 

 以上の検討から明らかなとおり、玉串料の支出は玉串にかえて玉串料という金銭を支出したという行為でなく、玉串料そのものが明白な宗教的性格を有するものであり、玉串料の支出そのものが直接の宗教的行為なのである。(233)

 

 目的・効果基準という判断基準は元来、信教の自由と他の人権が衝突する局面、あるいは行政が公共の福祉実現のために行なう給付行政的サービスを実施するためにあたり、間接的付随的に特定の宗教とかかわりをもち、その憲法適合性が争点とされるような事例について用いられるべき判断基準であるが、地鎮祭への公金支出はそのいずれにも該当しない事例である。(234)

 

 いずれも、行政が公共の福祉実現のために行なう給付行政的サービス(生存権にもとづく国民の福祉実現のための諸政策)を実施するにあたり、間接的付随的に特定の宗教とかかわりをもち、その憲法適合性が争点とされるような事例でない点は同じであって、本来目的効果基準を用いて判断するまでもない事例であるが、玉串料等の公金支出は、愛媛県という行政主体が特定の宗教団体の宗教行事の中核に積極的に参加し、宗教的活動を行ったものであって、その一事をもって政教分離の原則に明白に違反すると言いうる事例である。(235)

 

 仮に、目的効果基準にしたがって判断した場合でも、地鎮祭への公金支出と玉串料の公金支出とでは、その行為の目的とする宗教的意義及びその効果に質的な差がある。(235)

 

 ……この故に教化活動は祭に始まって祭に終わるとも言うこと来る。……祭祀をおろそかにしての教化活動は神社神道においては無意味である。(238)

 

 「……単なる記念碑又は廟としてに非ずして、一箇の神社として存続することが日本政府の意向なり」という道を選択した。(252)

 

 このように、靖国神社国家護持運動は、憲法の政教分離原則の枠内で戦没者を追悼する国家施設の創設を望んでいたのではなく、宗教的施設としての性格を保持したままで靖国神社を国家護持するという、明白に憲法に違反する運動であった。(253)

 

 昭和五四年六月一四日の自民党本部「英霊のこたえる議員協議会」小委員会における「靖国神社公式参拝に関する衆議院法制局長見解」の要点は、次のとおりである

 「現在の靖国神社は、憲法第二十条第一項にいう『宗教団体』に該当するものであると考えております。この点につきまして靖国神社の場合は、そこに合祀されている殉国者、戦没者の英霊が、他の神社の祭神とは異なりわれわれ国民の身近な肉親であった人々という非超越的な存在であるということから、靖国神社の宗教性は希薄なものであるとし、延いては、靖国神社は宗教ではないとみる考え方がないではないが、このような考え方は少数説にとどまるものであり、靖国神社は、やはり英霊を祭神とし、神道の儀式によってこれを合祀しているのであるから、特異性はあるとしても、それが宗教団体であることは当然の前提として承認されなければならないと考えます。(中略)天皇をはじめ内閣総理大臣その他の国の機関が公式に、すなわち、公的資格で靖国神社に参拝することについては、国会において、しばしば論議が行われておりますが、この問題についての政府の見解は、『国の公務員が公の資格で神社仏閣に参拝することについて憲法第二十条第三項との関係が一応問題になるのですが、常に参拝するためだけならば憲法違反の問題は起きないのじゃないかという考え方もございます。それから、参拝することだけでもやはり憲法違反の問題が起きるのだという見解もございますし、あるいは参拝をして、その神社であれば祝詞をあげてもらいおはらいをしてもらうというような儀式を伴う場合に限って問題になるのだという考え方もございますが、政府としましては、最もかたい立場、解釈をとりまして、公人としての参拝はやはり憲法二十条の三項の規定問題があるから、従来から私人として参拝していただくということで一貫しておるわけでございます。』というものであります。(中略)靖国神社公式参拝の実質的意味合いは、靖国神社に祀られている神とのかかわり合いを公的に認めようという国の意思の表明とみるべきであるといわなければなりません。この場合、その具体的な表徴としては、例えば、閣議決定によって国の行事としてこれを行うとか、玉串料を予算によって支出するとかのことが伴ってくるものと考えます。公人の公式参拝は、したがって、天皇、内閣総理大臣等が私人の資格で参拝するのとは質的に異なり、憲法第二十条第三項の国又はその機関による宗教活動に該当し、政教分離の原則に抵触するものであって、許されないものというべきであろうと考えられるのであります。」(253-254)

 

 このように、衆議院法制局、歴代首相ならびに政府統一見解のいずれをとっても、玉串料等の公費支出は違憲ということで一貫しており、(255)

 

 「中曽根総理の靖国神社公式参拝でいろいろ内外においての批判がでておるわけでございまするが、私も実はこの中曽根総理の公式参拝にあえて反対は致しておりません。しかしながら、靖国神社参拝において『二礼二拍手一礼』をやめて一礼するとか、あるいは玉ぐし料のかわりに供花料で公費支出するとか、それがどういう関係でやっておるのか、私には実は納得がいかないわけでございまして、……」(259) ←白石知事の発言の引用

 

 廃案から約一八年、最後の公式参拝から約七年が経過し、遺族会等の国家護持運動による政教分離原則に対する挑戦には、一応決着がついたと言って過言ではないであろう。(260)

 

 「多数者」の意識は必然的に政治過程に反映される。しかし、司法過程は、政治過程に反映されないが、憲法上保護すべきだと合理的に考えられる規範的価値に敏感であるべきだ。(276)

 

 そして、敗戦により、軍が解体され、国家神道が廃止された後においても、靖国神社のこの宗教的性格、祭神、神体、祭祀儀礼等の実体がいささかも変化していないことは、現行の「靖国神社社憲」「靖国神社規則」にみられるとおりである。そこでは、むしろ戦前からの性格、伝統の継承が明白に宣言されている。(293)

 

 もっとも、戦没者の遺族の中には、「戦没者は国のために戦って死んだのだから、戦前と同じように英霊あるいは護国の神として靖国神社・護国神社に祀ってほしい。靖国神社・護国神社の祭祀によってはじめて、宗教的な慰霊の感情を満足させることができる。」という人もいるであろう。それは、それで自由に行なえばよい。たとえ靖国神社のような宗教であろうとも、現行憲法下では個人の信教の自由は保障されている。(298)

 

 昨今、国際化あるいは国際貢献ということが盛んに唱えられているが、A級戦犯をも祭神として祀る靖国神社の例大祭の祭祀に国や地方の行政主体が戦没者追悼の名目で積極的にかかわる姿をみれば、戦前の偏狭なナショナリズムが招いた侵略戦争の反省を日本国民は全くしていないと疑われてもしかたがない。これでは国際協調の前提となる諸外国からの信頼、殊に近隣アジア諸国の信頼を得ることはできないであろう。(299)

 

 さらに白石は、一九八五年(昭和六〇年)八月一五日中曽根首相が靖国神社にいわゆる公式参拝をしたことに関して、「玉串料支出の問題でございますが、実は、中曽根総理の靖国神社公式参拝でいろいろ内外において批判が出ておるわけでございますが、私も実はこの中曽根総理の公式参拝にあえて反対はいたしておりません。しかしながら、靖国神社において『二礼二拍手一礼』をやめて一礼をするとか、あるいは玉串料のかわりに供花料を公費で支出するとか、それがどういう関係でやっておるのか、私には実は納得ができない(略)、公式参拝するのにその儀式にかわったことをしたらええというのは、私のような古い考え方では理解できない(略)」と述べるなどしている。(308-309)

 

 ところで本件玉串料訴訟は、歴史への深い洞察と、人権感覚が問われる裁判でもある。改めて二つの点を指摘しておきたい。

 第一は靖国神社の特質である。靖国神社は、かつての国家神道の中心施設であったばかりでなく、陸海軍の宗教施設であったことは前述のとおりである。即ち、軍の手によって創建された経緯があるのみならず、敗戦に至るまで陸海軍省の管轄におかれていた。その目的は、兵士の気持を天皇への忠誠に統一していこうということであった。従って、本来ならば敗戦と同時に消滅していなければならないものだったのである。更に付言すれば、靖国神社は故人を神として祭る際に、祭られる人の宗教を問わないのである。戦没者の中にはキリスト教徒も仏教徒もいる。それなのに一様に神として祭るのは、個人の信教の自由を頭から否定していたのである。即ち、靖国神社は戦前において、政治権力や軍によって徹底的に利用されたのである。政治権力はいつの時代でも自己の支配体制の正統性と安定性のために、あらゆるものを利用するが、靖国神社もその一つである。

 本件玉串料等の支出は、再び政治権力が靖国神社を利用しようとするものに道を開くものである。

 第二は信教の自由の特質である。

 信教の自由は、近世民主主義国家の一大原則であり、これは数世紀にわたる政治的及び学問的闘争の結果勝ちえた結晶である。しかし、宗教というものは、その中心的部分が魂の問題であり、人間の内心にあって静謐のうちに宗教上の感情と思考を巡らせるものである。このことは、個々人によりさまざまで、信仰というものは時には死をも恐れないものであるが、又、極めて傷つきやすいものでもある。ことに我が国においては、多重信仰(シンクレティズム)の現象が見られ、他人の内心の痛みには案外無頓着であり、信教の問題について十分な敏感さをもたない事情もある(宗教的に寛容な日本人は、その寛容さのゆえに宗教的に潔癖な相手を偏狭な信仰だと決めつけている非寛容な態度をしばしば示す)。

 従って、たとえ少数者の潔癖感とも思われる内容の事柄といえども、敢えて尊重するというのが信教の自由の特質であり、わが国では特に重要視されなければならないのである。本件玉串料においては、特定の宗教の背後に愛媛県が存在するという印象を与えているのである。これはすぐれて感覚の問題でもある。特定の宗教の背後に国や地方公共団体が存在するという印象を与えることは、宗教的少数者に対し、公的承認を受けた宗教に服従するように内心的に圧力が生じるのである。名目は何でもよい。玉串料の金額が少額でもよい。参加を強制しなくてもそれは問題ではない。知事自身の参加の有無を問うものでもない。

 この点について、本件と同じ玉串料が問題となった一九九一年一月一○日仙台高裁判決が、「玉串料等の奉納は特定の宗教団体に対し、恒常的かつ継続的に公金の支出を行うことになるから、その行為の態様からして岩手県が他の宗教団体に比して、靖国神社を特別視しているとの印象を社会一般に与えていると推測せざるをえない」と述べている点を高く評価するものである。(317-318)

 

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