昨日、わたしがかつて発行していた個人新聞『ふだらく通信』のバックナンバーのファイルを起こして引用した文章を載せましたが、それがきっかけで同じ『ふだらく通信』の過去記事をいくつか思い出しました。
今日は同紙第89号(2006年8月)に載せた、足摺岬に近い土佐清水市大岐の温泉保養施設の話を引用してごらんに入れましょう。
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大岐の浜に温泉保養施設
前号で申しましたように、今年のわが家は超緊縮財政で、私は夏に四国へ旅行しても土佐清水までは足が延ばせません。でも、幸いなことにバーチャル空間を通じて土佐清水のニュースもちらほら入ってきます。
最近の大きなニュースは、土佐清水市東北部の大岐の浜に新しい温泉保養施設「海癒の湯」が開業したというニュースでした。これは、地元出身でバリ島など外国のリゾートホテルでの修業経験もある国際派の岡田充弘さんが、みずから掘り当てた源泉を生かして起ち上げた、独自のコンセプトに満ちた温泉保養施設です。
岡田さんのモットーとするところは、「素(す)のまま」を生かしたシンプルライフ。50年前までの日本人があたりまえに身につけていた自然との共生の知恵や、貧しい中でもそれなりに享受していたある種の豊かさを、現代において再発見するというテーマです。
現代の都市生活を送っていると痛感することですが、私どもの身辺には、ほっておけばいくらでも情報が増殖します。どれが本当に大切な情報かもわからないまま、とりあえず遅れをとらないように、あれにもこれにもかかわっておかねばと思っているうちに、手段であったはずの情報に逆に人間のほうが振り回され、逃げ水を追いかけて走るような空しい作業によって身も心もぼろぼろにされてしまいます。
そんなとき、日常のしがらみを遮断して、自分を見つめなおす機会を与えてくれるような場があったら、いいですね。岡田さんの「海癒の湯」が目指しているのは、まさにそうした場のようです。
ところで、「海癒の湯」の源泉は温泉ですが、伊豆や豊後などの熱源密集地帯の温泉とは違うので、浴用には加熱が必要な「沸かす温泉」です。しかし、加熱にあたっては、多くの他の温泉がやっているような重油ボイラーには頼らず、薪で沸かすという時代がかった方法を敢えて採用したそうです。合理主義で考えると、熱しさえすれば燃料が何であろうと効果は変わらないだろうに、わざわざ手間のかかる方法をなぜ採用するのかと、疑問を呈したくもなりますが、手作り的なプロセスそのものにこだわるところから、目には見えない価値が生まれるというのが、どうやら岡田さんの哲学のようです。
これは、「森のイスキア」という施設で「食」を通じた心の癒しを追求している佐藤初女さんの哲学とも通じるところがあります。たんねんに育てた自家製の食材を、長年使い込んで年季の入った山椒の木のスリコギなどで心をこめて料理することで、訪れる人々に無言のうちに何かを分かち合ってもらい、それを心の立ち直りのきっかけにしてもらうという佐藤さんの実践活動には、合理を超えた何かがあります。岡田さんの「薪」も、佐藤初女さんの使い込まれた山椒の木のスリコギのようなものと理解するべきなのでしょう。
大岐の浜は、土佐くろしお鉄道の中村駅で下車して、土佐清水・足摺岬方面行きのバスに乗り、トンネルを抜けて、道の左側に太平洋の景色が開けてきてから、しばらく行ったところにあります。
下記のURLのホームページがありますので、訪れたい方はまずこれを参照して、事前に岡田さんご本人にも連絡を取ってみてからお行きになるとよいでしょう。
http://kaiyu.in/
割り箸論争の思い出
ところで、ホームページを拝見すると、ボイラーのそばに薪が積み上げてある画像があって、「薪は1日1トン近く使います」と解説がついています。人によってはこれを見て「二酸化炭素の発生量も半端じゃないだろうなあ。重油を使わないといったって、薪をこれだけ消費したんじゃ、地球環境への負荷はあんまり変わらないんじゃないの?」なんて感想を抱くかもしれませんね。
それとの関連で、1990年ごろわが国で起こった「割り箸論争」というのを思い出しました。
日本の木材需要が増加を続ける中、日本の商社がフィリピン、インドネシアなどの森林を丸裸にしているという深刻な事態が明るみに出たこの時代、一部の環境保護論者のあいだで「使い捨て生活に慣れてしまった私たち自身のあり方を、まず反省すべきだ。手始めに、割り箸の使用を自粛しよう」という運動が提唱されたことがありました。それを受けて一部の職場で、職員食堂の箸を、洗って何度も使う箸へと戻す動きなどもありました。
「木材浪費→身近な実例は?→ああ、割り箸だ!→使用を自粛しよう」といういささか短絡的なこの運動に対しては、同じ環境保護論者の中からむしろ反論が出ました。割り箸は、もともとそのままならたいした使い道がない間伐材や、丸太から大きな材を切り出した残余の部分などの有効活用法として、古くからの日本人の生活の知恵として根付いてきたもので、これの使用が盛んであってこそ間伐材の売れ行きも保たれ、日本の森林の手入れも進むのだから、使用を抑制すればかえって日本の森林の荒廃に手を貸すことになる、というのです。ただでさえ、木材といえば大口の需要に答えるものばかりが経済的価値を付与される悪しき工業化社会のあおりを食って、間伐材の利用先が少ないことで、森林の守り手が十分な所得を得られず、林業を放棄するというのが日本の病理なのに(そのくせ外材は「あとは野となれ山となれ」で買いあさる!)、そのことを見ない机上で考えられた割り箸自粛論に多くの人が簡単になびくのは、むしろ現代人の生活経験がいかに貧弱になっているかを如実に示す象徴だ、というのです。
考えてみれば、割り箸というのは、使用のつど真新しいものを使うことにより、衛生面で高い安全性が保たれるという利点があります。どうせ割り箸にしなければゴミとして捨てられかねない使い道の少ない材木を一度は使ってから捨ててあげるわけですから、再度利用しなくてもちゃんと有効利用にはなっています。麺類を食べるときなどは、塗り箸ではツルツルすべってとても不便であり、割り箸のほうが機能上も優れています。職員食堂などで塗り箸を衛生基準に適うまで清潔に洗おうとすれば、使う洗剤の量も相当なものになり、地球環境への総合的負荷はそのほうがかえって高いことになるでしょう。
わが国で木材をいちばん浪費しているのは、建設現場で使われているコンクリート流し込み時の型枠用パネル(コンパネ)であり、コンパネの使い捨てをどうやったら減少できるかに取り組むのが政治の課題であるときに、有権者が妙に自虐的になって「私たちも悪かった。自粛しよう」という精神主義的で情緒的な運動へと問題を矮小化してしまうのは、けっして真に問題を見つめるゆえんではないという、硬派からの批判もありました。
「海癒の湯」の場合の「薪」も、きっと間伐材や廃材などの有効利用として、割り箸と同じような意義があるものと私は想像します。
スローライフの存立条件は?
それにしても毎日、朝10時の入浴サービス開始よりだいぶ前から湯を沸かし始めて、午後8時の終業時間に火を落とすまで、家族の労働だけで薪釜の面倒を見るのは、並大抵のことではなかろうと、察せられます。おせっかいながら、ご家族が病気で倒れたときなどどうするのだろうと、心配してしまいます。
サービス業の料金というものは、結局のところ人間の手間暇がどれだけ注がれているかに比例して上がり下がりするものですから、これだけ手作り的な作業にこだわれば、料金も安くはないだろうと思ったら、案の定、入浴料金は大人900円、子ども600円だそうです。
それだけ料金を払ってでも「海癒の湯」を楽しもうという顧客層を掘り起こすのは、これもまたそう簡単なことではなかろうと、経済学者のはしくれである私としては、正直に言って一抹の不安も覚えてしまいます。
普通の経済原則に従えば、手間暇を惜しむことこそがコストダウンの正道で、ひいては市場開拓の正道です。その典型が街にあふれるファーストフード店で、規格化された作業マニュアルを作り、非熟練の安い労働力を活用して人件費を抑え、400円ぐらいでお昼ごはんが間に合う低価格を実現しています。
これに対してスローフードというものを見直そうという動きがありますが、「海癒」のコンセプトもそれに準ずる「スローライフ」です。
そういうものが産業として成功するには、いろんな条件が必要だと思います。まず大切なことは、そこで働く人自身が、手間暇を苦役ではなく楽しみとして、お客さんと一緒に過ごす時間に効用を感じること。そして第二に、現場では手間暇を惜しまない代わりに、施設の存在をアピールし、顧客を開拓する作業においては、インターネットなど最新の情報技術を活用して、大胆にコストダウンを図ることです。要は、最先端技術と手作り作業との適切で大胆な結合が必要ということです。
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引用は以上ですが、「海癒」は今も営業されておりますので、その情報をリンクしておきましょう。