「奇跡の詩人」騒動 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

今を去る18年のだいぶ古い話ですが、2002年の春に「奇跡の詩人」騒動というものがありました。NHKスペシャルで放送された番組の内容に、たいへんいかがわしいものがあったということで、識者から批判が巻き起こった事件です。最近、この事件のことをフェイスブック上で話題にする機会があったため、思い出しました。

 

その件に関して、騒動直後の2002年9月に、わたしが当時発行していた個人新聞『ふだらく通信』の第68号に記事を書きましたので、それをファイルから起こして、ここに転載します。

 

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「奇跡の詩人」騒動―NHKの放送に批判が殺到

 さて、話は変わりますが、今年4月28日のNHKスペシャルで放送された「奇跡の詩人」というドキュメンタリーをめぐる騒動を、ご存じですか?

 このドキュメンタリーの主人公である少年の名前は仮に「L君」としておきましょう。

 「L君の著書」と称するものが初めて世に出たのは今から4年前、本人8歳のときでした。超未熟児で生まれ、受けた手術の後遺症で脳障害を背負い、自分では立つことも言葉を発することもできないけれど、文字盤で意思を伝えることが可能になり、6歳ごろから漢字も混じった文章をちゃんと書けるようになり、このたびその成果が本になった、という触れ込みでした。

 『はじめてのことば』と題されたその本、できすぎていて妙な点もありましたが、短い詩の形で書いてある部分など、「なるほど、文字盤の升目をひとつひとつ指さして、気の遠くなるような努力の末に発信されたギリギリの言葉か」と、納得できる部分もありました。

 ところが、……です。

 その後、その続編のような「L君の本」と称するものが、次から次へと出版されるようになりました。それが雑誌にも紹介され、「L君の信者」のような人々が生まれました。そしてとうとう今年4月、天下のNHKまでがこのL君を「奇跡の詩人」と持ち上げる番組を制作して、公共の電波に乗せたのです。

 言いたいことはわからないでもありません。

 「脳障害があれば心が貧しいと考えるのは誤りで、人としてこの世に生まれた人はみんな、心は豊かなのだ。脳障害児と呼ばれている子らの場合、通常は周囲がコミュニケーションの取り方を知らないために、心そのものが貧しいように見えているだけで、適切なリハビリと適切なコミュニケーション手段さえ準備してあげれば、無限の可能性が開けてくるんだ。……」

 世の中に「希望」を伝えたいという善意から始まった企画であったことは認めてよいと思います。

 しかしながらその放送、不用意にL君の「執筆活動」の舞台裏を映像で紹介してしまったため、従来からこの「L君の奇跡」について抱かれていた疑問に、一気に火をつける結果になってしまいました。

 「L君が文字盤を指しているというが、逆に母親の持つ文字盤のほうが移動しているではないか!」、「そもそも、L君が文字盤を指す回数と転写される文字数が合っていなくて、指の移動回数よりも明らかに多くの言葉が書き取られているではないか!」、「L君は眠ってしまっていて、母親の手だけが動いている場面さえあったではないか!」など。

 あれはL君という「人形」を使った母親自身の一種の「腹話術」だ、という痛烈な批判まで出てきてしまいました。意図的な「腹話術」ではないとしても、潜在意識で「こういう言葉が出てきてほしい」と願っていると、無意識にその言葉を指さす方向に指示棒が動くという「こっくりさん」現象だという見方もできます。

 そしてとうとうこの番組をめぐる議論は「公共の電波を確証のない奇跡ばなしの宣伝に使った」NHKの経営姿勢そのものへの抗議にまで発展してしまいました。

 

ありのままを受け容れるということのむずかしさ

 批判の内容は多岐にわたりますが、……。

 第1に、紹介されているドーマン法というリハビリ・プログラムと、介助者が手を支えて文字盤を指ささせるFC(ファシリテーテッド・コミュニケーション)という交流方法に、科学的根拠がないという批判です。

 第2に、ドーマン法による奇跡を強調することは、同じ程度の脳障害児をもつ親に、幻想と焦りを与え、「わが子にもそれだけの可能性があるのに、してやれない私は親としてダメだ」という罪悪感さえ植え付けるから、たいへん罪深い番組だという批判です。

 第3に、L君のメッセージと称するものが、発達心理学的にみておかしいという批判です。子どもが外界に関心をもって自然や他人との交流を始めるときに当然出てくるはずの素朴な興味、驚き、不満などの表明がなく、出てくるのは、30代の大人が語るような人生訓的メッセージばかり。しかもそれが「6歳」のときから「12歳」のときまで変わらず、進歩がないというのです。

 第4に、L君の新著というものが放送直後に発売されており、放送でもその新著を「目下執筆中」という場面が出てくるので、これは公共の電波を無料でコマーシャルに使ったものだとの批判です。

 L君ブームのいちばんの矛盾点は、「ありのままの自分を受け容れることが大切だ」といった一種宗教的なメッセージを売り物にしていながら、そのメッセージをのたまうL君という人自身は「奇跡のリハビリ法」でこうなったんだと周囲が説き、だからバスに乗り遅れるなと人々をあおり立てている点です。脳障害の子をもちながら、迷いと模索の末に、本当の意味での「ありのままを受け容れる」境地にたどり着いた親たちにとって、このブームは何とも迷惑に思えるようです。

 何も天才詩人である必要なんかないのです。「脳障害を背負いながらも、家族はこういうふうに明るく生きています。近所の人たちや、介助のボランティアとこういう温かい交流ができました」といった、何でもない日常を描いて、しかも「なるほど」と視聴者を感動させるような番組こそが優れた番組なのです。それをせずに耳目を驚かす奇跡話を売り込みたがるのは、安易すぎます。

 

神は数学したまわず

 この件に関連して私が特に興ざめだったのは「L君が大学レベルの数学の本を読んでいる場面」などというこけおどしの写真が本に載せられていたことです。

 「数学のできる人は頭がよい」という世間常識によりかかって、「L君はこれほどの天才だ」という手っ取り早い説得手段として「数学の本」を使ったのでしょう。しかし、真に「天才詩人」なら何で「数学の本」などというつまらぬものを持ち出す必要があるのでしょう。

 数学というのは一種の職人技です。それのできる人は世の中に必要です。が、世界を直観的に把握する芸術家などにとって数学はなくてもいいものです。「神は数学したまわず」という諺があります。人間は論理的に解析しないとものごとがわからないからやむをえず数学を使うけれど、全知全能の神なら、いちいち数学を使う必要などないということです。数学者自身の中にこの諺を引用する人が多いことを、知っておくべきでしょう。

 

財界の有力者による「やらせ」だったのでは

 このL君番組、どうにも企画が拙速で、裏付け不十分な情報を流す結果になったのは、「L君の信者」である精神世界好きの財界人(名前は未特定)が強引にNHKに持ち込んで、トップダウンでやらせた企画だったからではないか、という見方もあります。

 そんなことやるぐらいなら、日本にいまだに少ないベジタリアン・レストランの普及啓発番組でもやってくれたほうが、よっぽど世のためになったのにと、あるベジタリアンと会ったときに私は話したものです。

 

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『ふだらく通信』の記事は以上のとおりです。

 

以下に、この「奇跡の詩人」騒動と関連するウェブ上の情報をいくつかリンクしておきましょう。

 

 

 

【高画質版】奇跡の詩人(偽りの奇跡)【ニコ生コメント付き版】 - YouTube

 

【高画質版】【マジキチ】「奇跡の詩人」のその後【カルト宗教】 (youtube.com)

 

【ゆっくり解説】 『奇跡の詩人 ~11歳 脳障害児のメッセージ~』 <後にNKHが釈明した、放送事故レベルのドキュメンタリー番組> 【ヤラセ・放送事故】 - YouTube

 

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