靖国神社問題リンク集 | MTFのAkemiのblog イタリア児童文学・皆既日食・足摺岬が好き

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私は、イタリア児童文学が大好きで、皆既日食も大好きで、足摺岬も大好きな、団塊の世代に属する元大学教員で、性別はMTFです。季節の話題、お買い物の話題、イタリア語の勉強のしかた、新しく見つけたイタリアの楽しい本の話題などを、気楽に書いていこうと思っています。

このブログでは政治の話は書きません。――と何度も宣言しておりますが、人々が政治を考え、判断を下そうとする際に参照するであろうネット情報の中に、事実をゆがめる誤ったものがある場合には、それを指摘する作業はします。

 

そこで例によって靖国神社問題ですが、私が、この問題をめぐる近年の世間の論議をみていて、とりわけ嘆かわしく思うのは、「靖国神社問題とは外交問題である」との外枠を最初から議論にはめてかかり、外交問題化より前から戦後連綿として続いてきた靖国神社問題の長い歴史についてはまったく無知なままの議論がまかり通っていることです。

 

1985年の中曽根康弘首相の公式参拝のころや、2001年4月に自民党総裁選挙で小泉純一郎が「終戦記念日の靖国神社参拝」を公約にかかげて勝利した結果、靖国神社についての論議が再燃を始めたころには、靖国神社問題をめぐっては、多様な論点があることをもっと意識した議論がなされていたものです。

 

それに比べて、昨今の靖国論議は、明らかに劣化しています

 

そこで、まず最初に強調したいのは、

靖国神社問題とは外交問題ではない。外交問題はむしろ些末な付録であり、この問題の本体部分はむしろ国内問題である、ということです。

 

と私が言うと、閣僚として靖国神社参拝をするにあたって「外交問題になるほうが絶対におかしい」と言ってのけた高市早苗のような政治家と、同類のことを私が言おうとしているかように、誤解されるかもしれませんが、私はそんなことを言おうとしているのではありません。

 

靖国問題を外交問題としてとらえているかぎり、論点は、

「近隣諸国の言い分がいろいろあるから、それらの国々の国民感情をいたずらに刺激しないように、外交上の利害得失をよく考えて、政治家は慎重に行動すべきだ」という意見と、

 

「自国の戦没者を追悼するというどの国の国民もやっていることが、日本の場合だけ、外国の顔色をうかがいながらでないとできないなどというのは、まことに不自然であり、情けないことだ。政府のこれまでの弱腰外交が、近隣諸国をつけあがらせて、いったん味をしめた彼らが『これは外交カードとして使える』と思い始めたのが問題の発端なのだから、不当なゆすり、たかり行為をやめさせるためにも、日本政府高官は堂々と靖国神社参拝を続けるべきである。そうすれば、いずれ、外交カードの効き目がないとわかる日がきて、彼らはひっこむはずだ」(←高市早苗の主張は要するにこれ)という意見の対立としか見えません。

 

こんな論点の立て方なら、相撲をとらないうちから勝負はついています。ある意味で「筋の通った」後者の主張のほうを支持する人が多くなるのは、目に見えているからです。

 

実際、第二次安倍政権成立(2012年12月)の少し前ごろから、いろんなメディアが動員されて、後者のような考え方が国民に吹き込まれていたからでしょうか、2013年12月26日に安倍晋三首相が、2006年8月15日の小泉参拝以来7年あまり途絶えていた「日本国首相の靖国神社参拝」を実行してみせたとき、「これで溜飲が下がった」などと言い出す若者が増え、気を強くした首相官邸では、在日アメリカ大使館を通じて出された「失望した」という米国政府のメッセージに対して、首相補佐官が「こちらこそ失望した」などと言葉を返すという、大人げない所業をやってのけました。これがまた若者の多くから喝采を浴び、彼らが率先して、在日アメリカ大使館のフェイスブックを「炎上」させました

 

実はそれに先立つ同年10月3日、来日中だったアメリカのジョン・ケリー国務長官とチャック・ヘーゲル国防長官とが、日本政府の案内によらず、自主的に、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に赴いて献花をしていました。アメリカは、サンフランシスコ平和条約によって日本を自国陣営に抱き込むことに成功して以後、儀礼面でも「戦争の仲直り」を象徴する儀式をやっておきたかったのに、歴代日本政府が、靖国神社という戦前の皇国史観を体現した施設に戦没者追悼の中心的施設としての役割を担わせ続けることにこだわっていたために、その儀式の機会を持てずにいたのです。

 

占領時代に1945年12月15日の「神道指令」を始めとする諸指令を通じて、皇国史観を否定したうえで平和条約を結んだはずのアメリカとしては、靖国神社が存続している事実だけは認めても、それを外交儀礼の場として承認するわけにはいかないのです。

 

一方、日本の側では、昭和20年代の末に、そのアメリカの態度を受けて、そういう儀式のできる公的な場として、「日本の無名戦士の墓」を構想したはずなのに、それが千鳥ヶ淵戦没者墓苑として具体化した段階で、靖国神社とその支持勢力が茶々を入れて、その意味づけを、あくまで「引き取り手のない」「一部の」戦死者の合葬墓であると、わざわざ格下げさせてしまったのです。

 

このときの靖国神社の頑固さには、同神社への合祀適格者名簿を送る作業を進めていた――ひいては、戦後における国と靖国神社との癒着構造を構築した元凶とも言われている――厚生省援護局の美山要蔵元陸軍大佐でさえ、大いに頭を悩ませ、同墓苑を晴れて「日本の無名戦士の墓」とすることができなかったことを後々まで残念がっていたという、興味深いエピソードがあります。

https://www.amazon.co.jp/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%8D%83%E9%B3%A5%E3%82%B1%E6%B7%B5-A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF%E5%90%88%E7%A5%80%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95%E3%81%AB%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%94%B7-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE-%CE%B1%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BC%8A%E8%97%A4/dp/4062816725/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1495097544&sr=1-2

 

情報収集に長けているアメリカ政府が、こういう歴史を知らないはずがありません。ちゃんと調べていたからこそ、両長官の千鳥ヶ淵への献花という具体的行動が出てきたのでしょう。明らかにそれは、安倍首相が靖国神社参拝にこだわり続けて、中国や韓国との意地の張り合いゲームを続けることに業を煮やしたアメリカ政府が、非公式ながら投げた強力な牽制球であり、「そういうことにいつまでもこだわっていては、日米同盟の強化という観点から言っても、ためにならないぞ。万一、そんなことをきっかけにして日本が中国と武力衝突など起こそうものなら、そのときはアメリカとしては助けてやる義理は感じないぞ。もうそろそろ、意地を張るのはやめて、国としての公的な戦没者追悼施設は千鳥ヶ淵のほうだと認めて、円満に解決したらどうだ。もともと墓苑の構想段階ではそうだったはずではないか」と、サジェスチョンを与えたものと、読み取ることができます。

http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/10/blog-post_4437.html

 

安倍参拝のあとで、在日アメリカ大使館から出された「失望した」とのメッセージは、これを踏まえて「あれだけサジェストしておいたのに……」という意味で出されたメッセージだったのです。

 

しかし、10月3日の両長官の千鳥ヶ淵献花を、日本のマスコミは(たぶん安倍政権の意のあるところを「忖度」して)、ことさら小さくしか報道せず、その意義を国民の目から隠していました。そのため、国民の多くは「失望した」の意味するところを理解できなかったのです。

 

いずれにせよ、この安倍参拝のころに顕著だったのは、批判といっても大部分が、「外国の人々の気を悪くするから」とか「時期がよくない」とかいう理由づけによるものにすぎず、あたかも、外国の批判がなければ靖国問題なんてもとから存在しないかのように考える風潮が世を覆ってしまいました。

 

そのころ、「もともと国内問題としての靖国問題があったはずではないか」というまっとうな問題提起をしたウェブサイトは、江川紹子さんの「国内問題として首相の靖国参拝を考える」というブログ記事だけでした。それをリンクしましょう。

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20140119-00031744/

 

「靖国問題」といえば、しばしば、「松平永芳宮司が1978年にA級戦犯まで合祀してしまったことが、問題のこじれの原因になったのだから、A級戦犯だけを祭神から除いて『分祀』することにすれば、外国からのクレームもつかなくなり、天皇陛下も晴れてもとどおり参拝なされるようになって、問題は解決するのではないか」という意見を言う人が(野党だけでなく、与党の中の穏健派にも)おり、それに対してゴリゴリ保守の人からは、「戦犯の名誉回復はすでに衆参両院の決議でなされているから、日本には戦犯と言う概念そのものがすでに存在しない。A級戦犯などという概念を認めること自体が自虐史観であり、許しがたい」などと、反論がなされます。

 

確かに、松平宮司が「A級戦犯合祀」にあたって使った、天皇をもあざむく手口は、大いに問題であり、また、A級戦犯という概念そのものがすでに失効しているとの議論は非常に胡散臭いものですが、

 

 

それならば、A級戦犯問題さえ解決すれば、靖国問題はなくなるのかといえば、そんなことはありません。

 

A級戦犯合祀は、何ら国家的意思決定を経ることなく、私法人靖国神社を構成する一部の者だけの独断で実行されたわけですが、戦後の靖国神社という組織が、民衆のあいだではなんとなく国家的、公共的な組織であるかのように受け止められていながら、その実は一部の者の独断で事を運ぶことのできる私法人となっているからこそ、松平宮司のようなこともできたということ、この点こそが大いに問題なのです。

 

靖国神社はなぜ、そういうことのできる機関なのか? この疑問をたどってゆくと、以下に述べる根本的な「ねじれ」の問題に行き着きます。

 

靖国問題とは、戦後の日本政府が、もとは国家の施設であった靖国神社という施設に、ある種の「ねじれ」を背負わせたまま再出発させたことに起因する、純然たる国内問題なのです。

 

簡単にいうと、靖国神社を私的な「宗教法人」として再出発させたのは、日本政府自身であって、この選択は、俗論がしばしば勘違いしているように「アメリカから有無を言わさずに強制された」ものではありません。

 

その手の俗論の主張者は、しばしば、1946年2月2日に出された「改正宗教法人令附則」に、靖国神社を含むすべての神社は、宗教法人令(という勅令)にいうところの「宗教法人」と「看做ス」と書いてあったこと、さらに、そうして新たに宗教法人と「看做された」組織(つまり神社)は、六か月以内に地方長官に届け出を出さなければ、期間満了の時点において「解散シタルモノト看做ス」と書かれてあったことを引き合いに出して、靖国神社は自由選択によってではなく、外部からの強制によって、無理やり宗教法人などという似つかわしくない地位を与えられてしまったのだ、と主張するのです。

 

以下に、「糸永司教のカトリック時評」での「戦後の靖国神社は宗教法人となったのだから、戦前の国家儀礼の場としての性格は失われたのであり、そこへの表敬を以前のように非宗教の国民道徳とみなすことは、できなくなった」という趣旨の発言と、それに噛みついている「ノーベル賞を狙う男」のブログをリンクしてみましょう。

http://mr826.net/psi/catholic/071001

https://plaza.rakuten.co.jp/dkfcm952/diary/200712210000/

 

「ノーベル賞を狙う男」が「糸永司教への反論1」に書いている「みずから宗教法人化した事実はない」という部分の議論は、1980年代に江藤淳『靖国論集』(日本教文社)という本に寄稿した文章で強調していたことですが、これは「改正宗教法人令附則」の字面だけを読んだために出てきた解釈であり、事実はその字面の裏にあります。

 

靖国神社当局は、1945年12月の「神道指令」と翌年2月2日の「改正宗教法人令」が身にふりかかってくるのを、手をこまねいて受動的に迎えたのではありません。1945年に10月24日の段階から、GHQの顧問となっていた東京帝国大学助教授で宗教学者の岸本英夫に面会を求めて、靖国神社や神道一般に対するGHQの方針をさぐり、11月26日以降はGHQの担当官と直接に面会もして、靖国神社の今後の法的な形態をどうするかの検討を重ねていました。

 

その結果、GHQは「信教の自由」ということを重視しており、また神道そのものは、国家主義的・政治的な外皮を取り除いてみれば、宗教にほかならないと認識している、ということを聞き出した当時の靖国神社の横井時常(よこい・ときひさ)権宮司は、「公的な戦没者追悼施設として認めてもらうかわりに、神道という特定宗教色は除いて、どんな宗教にも中立的な施設にする」という選択肢と、「神社のままで進み、神道様式による祭祀も続けるかわりに、民間の法人となることに甘んじる」という選択肢とを両天秤にかけた結果、後者を選んだのです。

 

ただし、靖国神社は、その時点ではまだ国家の施設であり、もし民間の法人になるとしても、軍(旧陸軍省→第一復員省、旧海軍省→第二復員省)の管轄下からどこかほかの省の管轄下に移籍しなければならないわけですから、当然、政府との話し合いが必要となります。アメリカ側が「神道指令」を打ち出し、神道施設であるかぎりは国家との特別な関係は解消しなければならないということがはっきりした段階で、今後の民間施設としての同神社を、どういう類型の私法人にするかについては、政府と靖国神社との間ですったもんだのやりとりがありました。「靖国廟宮」という名で財団法人にしたいという横井権宮司と、12月28日に公布施行された、仏教やキリスト教や新宗教などの諸団体に適用される「宗教法人令」(文部省所管)を改正して、伊勢神宮以下の一般神社もその枠の中に入れ、靖国神社も同じ枠に入れるのでいいではないかという政府側で、やりとりのあげく、1月19日に合意が成立して、宗教法人としてやっていくということに靖国神社当局も同意しました。1月25日の閣議でそのことが了承され、「神宮及ヒ神社ハ之ヲ宗教トシテ取扱ヒ之ニ関スル事務ハ宗教法人令改正施行ノ日ヨリ文部省ニ於テ管掌スル」との閣議決定がなされました。

 

2月2に公布・施行された改正宗教法人令の附則に、六か月以内に届け出を出さなければ「解散シタルモノト看做ス」とあるのは、関係者のあいだの合意もすでにできている既定の約束事を、確実に履行させるための担保として書かれた規定にすぎなかったのです(つまり、神社が「はいはい、宗教法人になりますよ」と言っておきながら、一年たっても二年たっても、そのための書類上の手続きをしないまま、なまけているようなことがあってはいけないから、「六か月以内に約束通りに手続きをしろよ」という意味で書かれた規定にすぎなかったのです)。

 

こうして、民間の宗教法人としての戦後の靖国神社が出発しました。このとき靖国神社があえて「民間の存在になります」と宣言した事実の裏に、どの程度、戦略的な思考があったのかは、今となってはわかりません。たとえ、秘密裏に関係者のあいだでの裏の「合意」(たとえば、「私法人になるというのは、占領期をやり過ごすための方便であって、靖国神社が本来公的なものであることは、否定しようもなく明白なことだから、いずれはその側面を復活させよう。今はまだ隠忍自重の時だ。占領軍の監視の目をなるべくはぐらかしつつ、慎重に行動しよう」などという「合意」)があったとしても、そんな「合意」を文書に書くはずはありませんから、史料としては残りません

 

が、いずれにせよ、このとき政府がこの神社に背負わせた「ねじれ」、――すなわち、「表向きは私法人だが、その事業は国の戦争での戦没者を祀ることであるから、本来公的性格のものであり、職員一同も、そう受け止めたうえで同神社に勤める」という「ねじれ」――こそが、その後、この神社がつねに物議をかもす存在であり続けてしまう原因となっているのです。

 

GHQは、12月15日に「神道指令」で国家と神道とを切り離すことを指令し、それが後の日本国憲法第20条3項の「政教分離」規定へと受け継がれるのですが、それに先立ち、10月4日には「人権指令」を出して、思想信条の自由とともに信教の自由を強調していました。それが日本国憲法第20条1項の「信教の自由」規定へと受け継がれます。

 

つまり、GHQは宗教政策については「錦の御旗」を二本掲げていました。靖国神社が国家との特別な関係を維持しようとし続けることは、第一の「錦の御旗」に反しますから、弾圧されます。しかし、そうして国家と切り離された靖国神社が、私どもはあくまで民間の宗教施設ですと自己規定するならば、そのかぎりにおいて第二の「錦の御旗」はむしろ靖国神社を庇護する盾となってくれます。

 

ここに目をつけて活路を見いだそうとしたのが、戦後の靖国神社でした。つまり、第一の「錦の御旗」によって、失われた失地のうえに、第二の「錦の御旗」をちゃっかり逆手に取って、立ててしまったのです。

 

GHQのスタッフは、まもなくこのことに気づき、「民間の宗教法人になります」という靖国神社側の一見謙虚そうな申し出を、すんなり認めてしまった「詰めの甘さ」によって、改革を骨抜きにされたということに気づきました。

 

が、基本的にそれは後の祭りでした。靖国神社が国家との特別な関係を求め続ければ、それは政教分離違反ですから、GHQは堂々と差し止めを命ずることができます。しかし、だからといって、靖国神社を潰してしまえと命じられるかというと、それをしたら今度は、みずからが錦の御旗として掲げた「信教の自由」を否定してしまうことになります

 

そのため、1946年11月になって、神社への境内地(国有地)払い下げの法案が日本政府によって用意された際に、GHQはそれに介入して、軍国的神社(靖国神社と地方の護国神社)については、その法律は適用除外とせよという「兵糧攻め」を実行して、靖国神社や護国神社が財政的に成り立たなくなるのを待とうとしますが、この政策もとことん貫くことはできず、朝鮮戦争の勃発によって、日本を反共の砦とする必要性が大きくなったのを潮時に、その命令も解除せざるをえなくなります。

 

このあたりの歴史は、2005年8月13日に放送されたNHKスペシャル『靖国神社――占領下の知られざる攻防』に詳しく描かれています。

https://www.amazon.co.jp/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB-%E9%9D%96%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%B8%8B%E3%81%AE%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E6%94%BB%E9%98%B2-DVD-%E3%83%89%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC/dp/B003O7QMHG/ref=pd_lpo_sbs_74_img_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=NWP07WTWJJP77GPY3ZRS

また、その放送の取材過程で明らかになった歴史を書物にまとめた中村直文・NHK取材班『靖国――知られざる占領下の攻防』(NHK出版)という本もあります。

https://www.amazon.co.jp/%E9%9D%96%E5%9B%BD%E2%80%95%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%94%BB%E9%98%B2-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E7%9B%B4%E6%96%87/dp/4140811226

 

こうして、「ねじれ」を背負ったまま占領期を生き延び、日本国憲法下で歩むことになった靖国神社には、二兎を追うという宿命が、ついてまわることになってしまいました。

 

どういうことかと言うと、靖国神社の今があるのは、GHQが信教の自由を認め、それが日本国憲法第20条1項に受け継がれたらこそである以上、靖国神社は新憲法による恩沢の受益者なのであり、その面を同神社は戦後一貫して、手放そうとはしていません

 

が、それでいながら同時に、「わが神社は、国事に斃れた死者をお祀りしているというその性格からして、本来公的性格の施設なのであり、国家から相応の礼をもって遇されて当然な存在なのである。そんじょそこらの仏教寺院やキリスト教会と一緒の、個々人が信じるか信じないかを決めるようなたぐいの『宗教』と、同列あつかいされる謂れはないのだ」という信念もまた、決して手放そうとはしていません

 

この信念にとって、目の上のたんこぶのように疎ましいのは、ほかならぬ同じ憲法第20条の第3項に書かれている「政教分離」規定です。だから、それを呪詛し、それの適用を法解釈上ゆるめる方向を志向し、あわよくば憲法改正によって明文上も変更させてしまいたいと、つねにねらっているのも、当の靖国神社なのです。

 

そうした「二兎を追う存在」としての「矛盾の塊」みたいな同神社のありようを、本音の次元で堂々を語ってみせているのが、「靖国神社職員有志の主張」というウェブサイトです。

https://yasukunishokuin.web.fc2.com/

 

この「靖国神社職員有志の主張」は、いわば「靖国教独立宣言」みたいなものです。「A級戦犯が祀られていることで、同神社がいろいろ国際的に物議をかもす存在になっているんだから、同神社に働きかけて、A級戦犯だけはなんとか分祀させることにすれば、晴れて再び、同神社を名実ともにわが国の戦没者追悼の中心的施設として、出直させることができるだろう。天皇陛下にもお参りいただける神社に戻るだろう」などという政治家のご都合主義的主張などは、この「独立宣言」の前には、木っ端微塵ですね!

 

その意味で、国がいったん宗教法人として信教の自由の保障の下に置いてしまった靖国神社は、今やどうしようもなく、おのれの信念に反するものは排斥する独立した宗教団体としての性格を備えてしまっているのです。これをいまさら、公的法人に再編成しようなどという提案は、話になりません麻生太郎などという政治家は、それがわかっていないものだから、2006年になっても、新味のない「特殊法人化」案を提案していましたが、その種の案は、かつて1969~74年に「靖国神社法案」として国会で審議され尽くし、その矛盾を露呈し尽くし、当の靖国神社自身から反対されて、ついえ去っているのです。そのことを知らない人が何と多くなってしまったことでしょうか。

http://www.aso-taro.jp/lecture/talk/060808.html

 

ところで、麻生太郎がカトリック教徒であるから、追加しておきますと、このブログの中で何度か取り上げたように、日本のカトリック教徒のあいだには一定割合、靖国神社参拝は国民道徳的な儀礼であって、カトリック信仰と矛盾しないばかりでなく、むしろカトリック教徒こそは率先して靖国神社に参拝すべきであると主張する人々がいます。先にリンクした「ノーベル賞を狙う男」もその一人ですが、そうした人々の中には、「マッカーサーの靖国神社焼却計画をやめさせたビッテル神父」というものを持ち上げる人が必ずいます。下にリンクする「トラネコ日記」というブログはそうした意見の典型です。

http://ryotaroneko.ti-da.net/e5204590.html

 

しかし、この「ビッテル神父伝説」は、私がこのブログで何度か指摘してきたように、靖国神社戦後改革史についての他の大多数の史料・文献の記述と整合しません。そもそも、その伝説が記述しているように、1945年の10月~11月の段階で、マッカーサーの鶴の一声で靖国神社存続が決まったなどというのであれば、それから一年もたってから、GHQのスタッフが「兵糧攻め」で靖国神社の自滅を図ったなどという事件が起こるはずはありません。この「ビッテル神父伝説」がいかにいい加減な情報であるかについては、下にリンクするマーク・M・マリンズの論文「いかにして靖国神社は占領期を生き延びたのか」が、詳細に明らかにしています。

 

 

 

また、この手の「ビッテル神父に感謝」とかいう主張をする人たちは、『マッカーサーの涙』(朝日ソノラマ)という本の中から、次の箇所をよく引用します。

「靖国神社が国家神道の中枢であり、誤った国家主義の根元であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道、仏教、キリスト教、ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである。」(同書118ページ)

そして、国家神道という制度は廃止されたのだから、その後の靖国神社は神父の提言のとおりのものになっているのであって、キリスト教徒も積極的にお参りすべきだというのが、それらの人々の主張です。

 

が、果たして今の靖国神社から、国家神道が排されているでしょうか? これは甚だ疑問です。確かに「靖国神社職員有志」が主張するように、今の靖国神社は「信教の自由」のもたらす恩沢を最大限に享受している宗教団体です。その意味では国家神道時代とは異なります。が、ほかならぬその「信教の自由」の保障の下に、「国のために死んだ者はすべてわが神社のご祭神として祀られねばならない」という国家と宗教の完全な癒着をよしとする思想を守ろうとしているのもまた、当の靖国神社なのです。実際、先にリンクした「靖国神社職員有志の主張」の中には、「国家功労者をお祀りするにあたって遺族の意思を確認するつもりは一切ありません。国のために犠牲となった英霊は、もはや遺族だけの独占物ではないと考えるからです。」という一節があります。

 

ここには、戦後の靖国神社が一貫してかかえ続けてきた「二兎を追う矛盾の塊」としてのこの神社の性格があります。私法人であることを主張したほうが都合のよいときは、最大限それを主張し、わが神社の事業は国家的・公的なものであり、そんじょそこらの宗教などとは違うのだと主張するほうが都合のよいときは、そちらを主張する。

 

まったく、こんがらかりきっていますね。というか、究極のご都合主義であり、究極のダブル・スタンダードですね。

 

そして、戦前の「上智大学生靖国神社参拝拒否事件」への対応としてヴァチカンから出された1936年の「布教聖省訓令」というものの存在が、さらに問題をややこしくしています。カトリック教徒は今もそれに従う義務があると説いているのが、下にリンクする「「親子チョコ」というブログです。

http://oyakochoco.jp/blog-entry-1386.html

 

だいたい、この種のネタというのは、いくつかの少数の発信源があって、それがネット社会を通じて、悪性感染症のように広がっているのですが、発信源のひとつは渡部昇一という上智大学名誉教授の諸著作です。私は一読あほらしくなって売ってしまいましたが、『渡部昇一、靖国を語る』とかいう本もありました。その中には、今や右翼のあいだで定番になっている「マーカーサー自身が、米国への帰任直後に議会の上院で、日本の戦争は自衛戦争だったと証言した」という説や、

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20150516/1431794907

https://www.facebook.com/iguchi.reiko.7/posts/277302169097696

 

その他のあやしげな説が、自分の都合のいいように切り貼りされていましたが、中に、滑稽なものとして、「GHQが日本の神道に対してとった政策は、被占領国の宗教の問題に口を出したものだから、近代国際法の起源となった1648年のウェストファリア条約が明記している『それぞれの領土内の宗教への相互不干渉』の原則を踏みにじるものであり、近代国際法の根本原理に違反したものだった」とかいう主張です。

 

むしろ逆で、GHQは「神道指令」の中で「宗教としての神道には口出ししない」という方針を一貫して述べており、ただ、国家がそれを他の宗教に増して優遇し、超国家主義イデオロギーの宣布のために利用することを禁止しているだけです。だからこそ、靖国神社は「これは神道という民間の宗教の施設でございます」と言えば、破壊を免れることができたのです。

 

渡部昇一らは、つねづね、靖国神社は一宗教という次元を超えた、国家レベルでの儀礼の場であり、何教の信者であろうとも礼を尽くすべき場所としてある、その意味で、公的なものであると主張しているわけですが、その一方で、GHQや、近年の中国政府などを非難する口実をさがす場合は、靖国神社の問題は「日本の宗教の問題」なんだから、国際的に外国から口を出される謂れはないのだと主張したがっています。

 

中国から1980年代にいちゃもんがついたときに、日本政府が「これはわが国の宗教の問題なのだから、国際的に口を出される謂れはない」と毅然として突っぱねておけば、その後の紛糾はなかっただろう、などと渡部昇一はいつか言っていましたが、それならばますます、国内的には、中曽根康弘首相の参拝は憲法20条3項に反することになって、外国から文句がつく以前に、国内問題として、首相の憲法違反行為になるはずではありませんか!

 

おのれの主張のご都合主義に気づかないのでしょうか。

 

ともあれ、以上でわかるように、靖国神社問題とは、外交問題である以前に、戦後の日本で靖国神社を再出発させるにあたり、永久に二兎を追わざるをえない矛盾に満ちた存在という性格を同神社に付与してしまった、日本政府の場当たり的な方針が起源となって起こった、国内問題なのです。

 

 

(なお、ここにリンクしたブログの書き手のうち、糸永真一司教は昨年12月10日に帰天されましたので、残念ながら、ブログにコメントを書いてもお返事をいただくことができなくなっています。)