大阪金型㈱は、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

宮本順三さんはグリコのオマケだけでなく、

の続き、
 
 
宮本順三さんは自叙伝、「ぼくは豆玩」という書籍を出版されている、
 
その中で、
 
 
「東京金型の星氏、今井氏とも会って、後の大阪金型の設立準備に奔走していた年でもある」
と書かれている、
その東京金型というのが、次の広告に出ているもの、
 
 
         (昭和28年 プラスチックス名鑑)
 
これらから、大阪金型㈱は昭和27年に設立されたと特定していいだろう、
そして、東京金型㈱は同業者仲間の方と判明した、
おそらく、同時期に設立されたのだろう、
 
それから、すでに紹介しているように日本プラスチックの濱田さんらも同時期の昭和28年頃からプラスチック製の玩具製造を開始している、
そしてその後すぐにレベル社の下請け製造も開始した、
 
その後昭和29年、大阪金型㈱は山三商店を統合させ「山三化学工業㈱」とした、
 
 
なので、大阪金型㈱は昭和34年当時の住宅地図には見当たらない、
もちろん、「山三化学工業㈱」は昭和34年当時の住宅地図には載っている、
そう、㈱日本プラスチックが間借りしていた大阪化学研究所の斜め向かいであった、
 
そして、その山三化学工業は昭和34年には事業場を閉鎖したとある、
 
 
その事業場を閉鎖した理由というのが、
1959年(昭和34年)、「多角経営に向かっていた山三化学のプラスチック建材部門で取引先と一悶着が起き、......事業場閉鎖の止むなきに至ったのである」とある、
 
一悶着起こしたその取引先とはどこなのか、一悶着起こしたこととは何なのか?
そのことが不明、
 
宮本順三さんがプラ製の玩具製造を始めたのが昭和27年、
日本プラスチックがプラ製の玩具製造を始めたのもちょうどその頃、
そして工場も近くの場所、
宮本順三さんの山三化学工業の事業場を閉鎖したのが昭和34年、
日本プラスチックが消滅したのも昭和34年、
 
何か関係がありそうな気がしてならない。