https://www.youtube.com/watch?v=rFyWeGcexBg

 

 

 

 

 

三山居士 

夏目漱石

 


 二月二十八日には生暖たかい風が朝か

ら吹いた。

 

その風が土の上を渡る時、地面は一度に

濡れ尽くした。

 

外を歩くと自分の踏む足の下から、熱に

冒された病人の呼息のようなものが、下

駄の歯に蹴返されるごとに、

 

行く人の眼鼻口を悩ますべく、風のため

に吹き上げられる気色に見えた。

 

家へ帰って護謨合羽を脱ぐと、肩当の裏

側がいつの間にか濡れて、電灯の光に露

のような光を投げ返した。

 

不思議だからまた羽織を脱ぐと、同じ場

所が大きく二カ所ほど汗で染め抜かれて

いた。

 

余はその下に綿入を重ねた上、フラネル

の襦袢と毛織の襯衣を着ていたのだから、

いくら不愉快な夕暮でも、

 

肌に煮染んだ汗の珠がここまで浸み出そ

うとは思えなかった。

 

試ろみに綿入の背中を撫で廻して貰うと、

はたしてどこも湿っていなかった。

 

余はどうして一番上に着た護謨合羽と羽

織だけが、これほど烈しく濡れたのだろ

うかと考えて、私かに不審を抱いた。 


 池辺君の容体が突然変ったのは、その

日の十時半頃からで、一時は注射の利目

が見えるくらい、落ちつきかけたのだそ

うである。

 

それが午過になってまただんだん険悪に

陥ったあげく、とうとう絶望の状態まで

進んで来た時は、

 

余が毎日の日課として筆を執りつつある

「彼岸過迄」をようやく書き上げたと同

じ刻限である。

 

池辺君が胸部に末期の苦痛を感じて膏汗

を流しながらもがいている間、余は池辺

君に対して何らの顧慮も心配も払う事が

できなかったのは、

 

君の朋友として、朋友にあるまじき無頓

着な心持を抱いていたと云う点において、

いかにも残念な気がする。

 

余が修善寺で生死の間に迷うほどの心細

い病み方をしていた時、池辺君は例の通

りの長大な躯幹を東京から運んで来て、

余の枕辺に坐った。

 

そうして苦い顔をしながら、医者に騙さ

れて来て見たと云った。

 

医者に騙されたという彼は、固より余を

騙すつもりでこういう言葉を発したので

ある。

 

彼の死ぬ時には、こういう言葉を考える

余地すら余に与えられなかった。

 

枕辺に坐って目礼をする一分時さえ許さ

れなかった。

 

余はただその晩の夜半に彼の死顔を一目

見ただけである。 


 その夜は吹荒さむ生温い風の中に、夜

着の数を減して、常よりは早く床につい

たが、容易に寝つかれない晩であった。

 

締りをした門を揺り動かして、使いのも

のが、余を驚かすべく池辺君の訃をもた

らしたのは十一時過であった。

 

余はすぐに白い毛布の中から出て服を改

めた。

 

車に乗るとき曇よりした不愉快な空を仰

いで、風の吹く中へ車夫を駈けさした。

 

路は歯の廻らないほど泥濘っているので、

車夫のはあはあいう息遣が、風に攫われ

て行く途中で、折々余の耳を掠めた。

 

不断なら月の差すべき夜と見えて、空を

蔽う気味の悪い灰色の雲が、明らさまに

東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばか

り渡していた。

 

その間が白く曇って左右の鼠をかえって

浮き出すように彩った具合がことさらに

凄かった。

 

余が池辺邸に着くまで空の雲は死んだよ

うにまるで動かなかった。 


 二階へ上って、しばらく社のものと話

した後、余は口の利けない池辺君に最後

の挨拶をするために、階下の室へ下りて

行った。

 

そこには一人の僧が経を読んでいた。

女が三四人次の間に黙って控えていた。

 

遺骸は白い布で包んでその上に池辺君の

平生着たらしい黒紋付が掛けてあった。

 

顔も白い晒しで隠してあった。

 

余が枕辺近く寄って、その晒しを取り除

けた時、僧は読経の声をぴたりと止めた。

 

夜半の灯に透かして見た池辺君の顔は、

常と何の変る事もなかった。

 

刈り込んだ髯に交る白髪が、忘るべから

ざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。

 

ただ血の漲ぎらない両頬の蒼褪めた色が、

冷たそうな無常の感じを余の胸に刻んだ

だけである。 


 余が最後に生きた池辺君を見たのは、

その母堂の葬儀の日であった。

 

柩の門を出ようとする間際に駈けつけた

余が、門側に佇んで、葬列の通過を待つ

べく余儀なくされた時、

 

余と池辺君とは端なく目礼を取り換わし

たのである。

 

その時池辺君が帽を被らずに、草履のま

ま質素な服装をして柩の後に続いた姿を

今見るように覚えている。

 

余は生きた池辺君の最後の記念としてそ

の姿を永久に深く頭の奥にしまっておか

なければならなくなったかと思うと、

 

その時言葉を交わさなかったのが、はな

はだ名残惜しく思われてならない。

 

池辺君はその時からすでに血色が大変悪

かった。

 

けれどもその時なら口を利く事が充分で

きたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=WwTkPiQ-X0k

 

 

 

 

変な音 

夏目漱石 

 

+

+

+

 

 上


 うとうとしたと思ううちに眼が覚めた。

すると、隣の室で妙な音がする。

 

始めは何の音ともまたどこから来るとも

判然した見当がつかなかったが、聞いて

いるうちに、だんだん耳の中へ纏まった

観念ができてきた。

 

何でも山葵おろしで大根かなにかをごそ

ごそ擦っているに違ない。

 

自分は確にそうだと思った。

それにしても今頃何の必要があって、

隣りの室で大根おろしを拵えているの

だか想像がつかない。 


 いい忘れたがここは病院である。

賄は遥か半町も離れた二階下の台所に行

かなければ一人もいない。

 

病室では炊事割烹は無論菓子さえ禁じら

れている。

 

まして時ならぬ今時分何しに大根おろし

を拵えよう。

 

これはきっと別の音が大根おろしのよう

に自分に聞えるのにきまっていると、す

ぐ心の裡で覚ったようなものの、

 

さてそれならはたしてどこからどうして

出るのだろうと考えるとやッぱり分らな

い。 


 自分は分らないなりにして、もう少し

意味のある事に自分の頭を使おうと試み

た。

 

けれども一度耳についたこの不可思議な

音は、それが続いて自分の鼓膜に訴える

限り、

 

妙に神経に祟って、どうしても忘れる訳

に行かなかった。

 

あたりは森として静かである。

この棟に不自由な身を託した患者は申し

合せたように黙っている。

 

寝ているのか、考えているのか話をする

ものは一人もない。

 

廊下を歩く看護婦の上草履の音さえ聞え

ない。

 

その中にこのごしごしと物を擦り減らす

ような異な響だけが気になった。 


 自分の室はもと特等として二間つづき

に作られたのを病院の都合で一つずつに

分けたものだから、

 

火鉢などの置いてある副室の方は、普通

の壁が隣の境になっているが、寝床の敷

いてある六畳の方になると、

 

東側に六尺の袋戸棚があって、その傍が

芭蕉布の襖ですぐ隣へ往来ができるよう

になっている。

 

この一枚の仕切をがらりと開けさえすれ

ば、隣室で何をしているかはたやすく分

るけれども、

 

他人に対してそれほどの無礼をあえてす

るほど大事な音でないのは無論である。

 

折から暑さに向う時節であったから縁側

は常に明け放したままであった。

 

縁側は固より棟いっぱい細長く続いてい

る。

 

けれども患者が縁端へ出て互を見透す不

都合を避けるため、わざと二部屋毎に開

き戸を設けて御互の関とした。

 

それは板の上へ細い桟を十文字に渡した

洒落たもので、小使が毎朝拭掃除をする

ときには、下から鍵を持って来て、一々

この戸を開けて行くのが例になっていた。

 

自分は立って敷居の上に立った。

かの音はこの妻戸の後から出るようであ

る。

 

戸の下は二寸ほど空いていたがそこには

何も見えなかった。 


 この音はその後もよく繰返された。

 

ある時は五六分続いて自分の聴神経を刺

激する事もあったし、またある時はその

半にも至らないでぱたりとやんでしまう

折もあった。

 

けれどもその何であるかは、ついに知る

機会なく過ぎた。

 

病人は静かな男であったが、折々夜半に

看護婦を小さい声で起していた。

 

看護婦がまた殊勝な女で小さい声で一度

か二度呼ばれると快よい優しい「はい」

と云う受け答えをして、すぐ起きた。

 

そうして患者のために何かしている様子

であった。 


 ある日回診の番が隣へ廻ってきたとき、

いつもよりはだいぶ手間がかかると思っ

ていると、やがて低い話し声が聞え出し

た。

 

それが二三人で持ち合ってなかなか捗取

らないような湿り気を帯びていた。

 

やがて医者の声で、どうせ、そう急には

御癒りにはなりますまいからと云った言

葉だけが判然聞えた。

 

それから二三日して、かの患者の室にこ

そこそ出入りする人の気色がしたが、

 

いずれも己れの活動する立居を病人に遠

慮するように、ひそやかにふるまってい

たと思ったら、

 

病人自身も影のごとくいつの間にかどこ

かへ行ってしまった。

 

そうしてその後へはすぐ翌る日から新し

い患者が入って、入口の柱に白く名前を

書いた黒塗の札が懸易えられた。

 

例のごしごし云う妙な音はとうとう見極

わめる事ができないうちに病人は退院し

てしまったのである。

 

そのうち自分も退院した。そうして、か

の音に対する好奇の念はそれぎり消えて

しまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=bgF_hXZDYc4

 

 

 

 

 

ケーベル先生 

夏目漱石 

 

 


 木の葉の間から高い窓が見えて、その

窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。

 

傍から濃い藍色の煙が立った。先生は煙

草を呑んでいるなと余は安倍君に云った。 


 この前ここを通ったのはいつだか忘れ

てしまったが、今日見るとわずかの間に

もうだいぶ様子が違っている。

 

甲武線の崖上は角並新らしい立派な家に

建て易えられていずれも現代的日本の産

み出した富の威力と切り放す事のできな

い門構ばかりである。

 

その中に先生の住居だけが過去の記念の

ごとくたった一軒古ぼけたなりで残って

いる。

 

先生はこの燻ぶり返った家の書斎に這入

ったなり滅多に外へ出た事がない。

 

その書斎はとりもなおさず先生の頭が見

えた木の葉の間の高い所であった。 


 余と安倍君とは先生に導びかれて、敷

物も何も足に触れない素裸のままの高い

階子段を薄暗がりにがたがた云わせなが

ら上って、階上の右手にある書斎に入っ

た。

 

そうして先生の今まで腰をおろして窓か

ら頭だけを出していた一番光に近い椅子

に余は坐った。

 

そこで外面から射す夕暮に近い明りを受

けて始めて先生の顔を熟視した。

 

先生の顔は昔とさまで違っていなかった。

 

先生は自分で六十三だと云われた。

 

余が先生の美学の講義を聴きに出たのは、

余が大学院に這入った年で、

 

たしか先生が日本へ来て始めての講義だ

と思っているが、

 

先生はその時からすでにこう云う顔であ

った。

 

先生に日本へ来てもう二十年になります

かと聞いたら、そうはならない、たしか

十八年目だと答えられた。

 

先生の髪も髯も英語で云うとオーバーン

とか形容すべき、ごく薄い麻のような色

をしている上に、

 

普通の西洋人の通り非常に細くって柔か

いから、少しの白髪が生えてもまるで目

立たないのだろう。

 

それにしても血色が元の通りである。

 

十八年を日本で住み古した人とは思えな

い。 


 先生の容貌が永久にみずみずしている

ように見えるのに引き易えて、先生の書

斎は耄け切った色で包まれていた。

 

洋書というものは唐本や和書よりも装飾

的な背皮に学問と芸術の派出やかさを偲

ばせるのが常であるのに、

 

この部屋は余の眼を射る何物をも蔵して

いなかった。

 

ただ大きな机があった。色の褪めた椅子

が四脚あった。

 

マッチと埃及煙草と灰皿があった。

余は埃及煙草を吹かしながら先生と話を

した。

 

けれども部屋を出て、下の食堂へ案内さ

れるまで、余はついに先生の書斎にどん

な書物がどんなに並んでいたかを知らず

に過ぎた。 


 花やかな金文字や赤や青の背表紙が余

の眼を刺激しなかったばかりではない。

 

純潔な白色でさえついに余の眼には触れ

ずに済んだ。

 

先生の食卓には常の欧洲人が必要品とま

で認めている白布が懸っていなかった。

 

その代りにくすんだ更紗形を置いた布が

いっぱいに被さっていた。

 

そうしてその布はこの間まで余の家に預

かっていた娘の子を嫁づける時に新調し

てやった布団の表と同じものであった。

 

この卓を前にして坐った先生は、襟も襟

飾も着けてはいない。

 

千筋の縮みの襯衣を着た上に、玉子色の

薄い背広を一枚無造作にひっかけただけ

である。

 

 始めから儀式ばらぬようにとの注意で

はあったが、あまり失礼に当ってはと思

って、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物

を着ていた。

 

君が正装をしているのに私はこんな服で

と先生が最前云われた時、正装の二字を

痛み入るばかりであったが、

 

なるほど洗い立ての白いものが手と首に

着いているのが正装なら、余の方が先生

よりもよほど正装であった。 


 余は先生に一人で淋しくはありません

かと聞いたら、先生は少しも淋しくはな

いと答えられた。

 

西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねた

ら、それほど西洋が好いとも思わない、

 

しかし日本には演奏会と芝居と図書館と

画館がないのが困る、それだけが不便だ

と云われた。

 

一年ぐらい暇を貰って遊んで来てはどう

ですと促がして見たら、そりゃ無論やっ

て貰える、けれどもそれは好まない。

 

私がもし日本を離れる事があるとすれば、

永久に離れる。

 

けっして二度とは帰って来ないと云われ

た。 


 先生はこういう風にそれほど故郷を慕

う様子もなく、あながち日本を嫌う気色

もなく、

 

自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な

乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時

代の世態が、

 

周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮

き上って、自分をその中心に陥落せしめ

ねばやまぬ勢を得つつ進むのを、

 

日ごと眼前に目撃しながら、それを別世

界に起る風馬牛の現象のごとくよそに見

て、極めて落ちついた十八年を吾邦で過

ごされた。

 

先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられ

た希臘の彫刻に血が通い出したようなも

のである。

 

雑鬧の中に己れを動かしていかにも静か

である。

 

先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響

がない。

 

先生は紀元前の半島の人のごとくに、し

なやかな革で作ったサンダルを穿いてお

となしく電車の傍を歩るいている。 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=n7blAH2oizg

 

 

 

 

 

夢十夜 

夏目漱石  

 

+

+第一夜

+第二夜

+第三夜

+第四夜

+第五夜

+第六夜

+第七夜

+第八夜

+第九夜

+第十夜

 

第一夜


 こんな夢を見た。


 腕組をして枕元に坐っていると、仰向

に寝た女が、静かな声でもう死にますと

云う。

 

女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らか

な瓜実顔をその中に横たえている。

 

真白な頬の底に温かい血の色がほどよく

差して、唇の色は無論赤い。

 

とうてい死にそうには見えない。

 

しかし女は静かな声で、もう死にますと

判然云った。

 

自分も確にこれは死ぬなと思った。

 

そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と

上から覗き込むようにして聞いて見た。

 

死にますとも、と云いながら、女はぱっ

ちりと眼を開けた。

 

大きな潤のある眼で、長い睫に包まれた

中は、ただ一面に真黒であった。

 

その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮

かんでいる。 


 自分は透き徹るほど深く見えるこの黒

眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと

思った。

 

それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、

死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、

とまた聞き返した。

 

すると女は黒い眼を眠そうに睜ったまま、

やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですも

の、仕方がないわと云った。 


 じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞

くと、見えるかいって、そら、そこに、

写ってるじゃありませんかと、にこりと

笑って見せた。

 

自分は黙って、顔を枕から離した。

 

腕組をしながら、どうしても死ぬのかな

と思った。 


 しばらくして、女がまたこう云った。 


「死んだら、埋めて下さい。

大きな真珠貝で穴を掘って。

 

そうして天から落ちて来る星の破片を墓

標に置いて下さい。

 

そうして墓の傍に待っていて下さい。

また逢いに来ますから」 


 自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。

 

「日が出るでしょう。

それから日が沈むでしょう。

 

それからまた出るでしょう、そうしてま

た沈むでしょう。

 

――赤い日が東から西へ、東から西へと

落ちて行くうちに、――あなた、待って

いられますか」 


 自分は黙って首肯いた。 

女は静かな調子を一段張り上げて、 


「百年待っていて下さい」と思い切った

声で云った。


「百年、私の墓の傍に坐って待っていて

下さい。きっと逢いに来ますから」 


 自分はただ待っていると答えた。

 

すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分

の姿が、ぼうっと崩れて来た。

 

静かな水が動いて写る影を乱したように、

流れ出したと思ったら、女の眼がぱちり

と閉じた。

 

長い睫の間から涙が頬へ垂れた。

――もう死んでいた。 


 自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で

穴を掘った。

 

真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であ

った。

 

土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差

してきらきらした。

 

湿った土の匂もした。

穴はしばらくして掘れた。

 

女をその中に入れた。

 

そうして柔らかい土を、上からそっと掛

けた。

 

掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差し

た。 


 それから星の破片の落ちたのを拾って

来て、かろく土の上へ乗せた。

 

星の破片は丸かった。

 

長い間大空を落ちている間に、角が取れ

て滑かになったんだろうと思った。

 

抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の

胸と手が少し暖くなった。 

 

 自分は苔の上に坐った。

 

これから百年の間こうして待っているん

だなと考えながら、腕組をして、丸い墓

石を眺めていた。

 

そのうちに、女の云った通り日が東から

出た。

 

大きな赤い日であった。

それがまた女の云った通り、やがて西へ

落ちた。

 

赤いまんまでのっと落ちて行った。

一つと自分は勘定した。 


 しばらくするとまた唐紅の天道がのそ

りと上って来た。

 

そうして黙って沈んでしまった。

二つとまた勘定した。 


 自分はこう云う風に一つ二つと勘定し

て行くうちに、赤い日をいくつ見たか分

らない。

 

勘定しても、勘定しても、しつくせない

ほど赤い日が頭の上を通り越して行った。

 

それでも百年がまだ来ない。

 

しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、

自分は女に欺されたのではなかろうかと

思い出した。 


 すると石の下から斜に自分の方へ向い

て青い茎が伸びて来た。

 

見る間に長くなってちょうど自分の胸の

あたりまで来て留まった。

 

と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持

首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっ

くらと弁を開いた。

 

真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂

った。

 

そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちた

ので、花は自分の重みでふらふらと動い

た。

 

自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、

白い花弁に接吻した。

 

自分が百合から顔を離す拍子に思わず、

遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬

いていた。 


「百年はもう来ていたんだな」

とこの時始めて気がついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=SZKtNFdC3Zg

 

 

 

 

 

Kの昇天

――或はKの溺死

 

梶井基次郎 

 

 

 


 お手紙によりますと、あなたはK君の

溺死について、それが過失だったろうか、

自殺だったろうか、

 

自殺ならば、それが何に原因しているの

だろう、あるいは不治の病をはかなんで

死んだのではなかろうかと様さまに思い

悩んでいられるようであります。

 

そしてわずか一と月ほどの間に、あの療

養地のN海岸で偶然にも、K君と相識っ

たというような、

 

一面識もない私にお手紙をくださるよう

になったのだと思います。

 

私はあなたのお手紙ではじめてK君の彼

地での溺死を知ったのです。

 

私はたいそうおどろきました。

と同時に「K君はとうとう月世界へ行っ

た」と思ったのです。

 

どうして私がそんな奇異なことを思った

か、それを私は今ここでお話しようと思

っています。

 

それはあるいはK君の死の謎を解く一つ

の鍵であるかも知れないと思うからです。 

 


 それはいつ頃だったか、私がNへ行っ

てはじめての満月の晩です。

 

私は病気の故でその頃夜がどうしても眠

れないのでした。

 

その晩もとうとう寝床を起きてしまいま

して、幸い月夜でもあり、

 

旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏み

ながら砂浜へ出て行きました。

 

引きあげられた漁船や、地引網を捲く轆

轤などが白い砂に鮮かな影をおとしてい

るほか、浜には何の人影もありませんで

した。

 

干潮で荒い浪が月光に砕けながらどうど

うと打ち寄せていました。

 

私は煙草をつけながら漁船のともに腰を

下して海を眺めていました。

 

夜はもうかなり更けていました。 

 


 しばらくして私が眼を砂浜の方に転じ

ましたとき、私は砂浜に私以外のもう一

人の人を発見しました。

 

それがK君だったのです。

しかしその時はK君という人を私はまだ

知りませんでした。

 

その晩、それから、はじめて私達は互い

に名乗り合ったのですから。 

 


 私は折りおりその人影を見返りました。

 

そのうちに私はだんだん奇異の念を起こ

してゆきました。

 

というのは、その人影――K君――は私

と三四十歩も距っていたでしょうか、

 

海を見るというのでもなく、全く私に背

を向けて、砂浜を前に進んだり、後に退

いたり、

 

と思うと立ち留ったり、そんなことばか

りしていたのです。

 

私はその人がなにか落し物でも捜してい

るのだろうかと思いました。

 

首は砂の上を視凝めているらしく、前に

傾いていたのですから。

 

しかしそれにしては跼むこともしない、

足で砂を分けて見ることもしない。

 

満月でずいぶん明るいのですけれど、火

を点けて見る様子もない。 

 


 私は海を見ては合間合間に、その人影

に注意し出しました。

 

奇異の念はますます募ってゆきました。

 

そしてついには、その人影が一度もこち

らを見返らず、全く私に背を向けて動作

しているのを幸い、

 

じっとそれを見続けはじめました。

 

不思議な戦慄が私を通り抜けました。

 

その人影のなにか魅かれているような様

子が私に感じたのです。

 

私は海の方に向き直って口笛を吹きはじ

めました。

 

それがはじめは無意識にだったのですが、

あるいは人影になにかの効果を及ぼす

かもしれないと思うようになり、それ

は意識的になりました。

 

私ははじめシューベルトの「海辺にて」

を吹きました。

 

ご存じでしょうが、それはハイネの詩に

作曲したもので、私の好きな歌の一つな

のです。

 

それからやはりハイネの詩の「ドッペル

ゲンゲル」。

 

これは「二重人格」というのでしょうか。

 

これも私の好きな歌なのでした。

 

口笛を吹きながら、私の心は落ちついて

来ました。

 

やはり落し物だ、と思いました。

 

そう思うよりほか、その奇異な人影の動

作を、どう想像することができましょう。

 

そして私は思いました。あの人は煙草を

喫まないから燐寸がないのだ。

 

それは私が持っている。

とにかくなにか非常に大切なものを落と

したのだろう。

 

私は燐寸を手に持ちました。そしてその

人影の方へ歩きはじめました。

 

その人影に私の口笛は何の効果もなかっ

たのです。

 

相変わらず、進んだり、退いたり、立ち

留ったり、の動作を続けているのです。

 

近寄ってゆく私の足音にも気がつかない

ようでした。

 

ふと私はビクッとしました。

あの人は影を踏んでいる。

 

もし落し物なら影を背にしてこちらを向

いて捜すはずだ。 

 


 天心をややに外れた月が私の歩いて行

く砂の上にも一尺ほどの影を作っていま

した。

 

私はきっとなにかだとは思いましたが、

やはり人影の方へ歩いてゆきました。

 

そして二三間手前で、思い切って、


「何か落し物をなさったのですか」


 とかなり大きい声で呼びかけてみまし

た。

 

手の燐寸を示すようにして。


「落し物でしたら燐寸がありますよ」


 次にはそう言うつもりだったのです。

 

しかし落し物ではなさそうだと悟った以

上、この言葉はその人影に話しかける私

の手段に過ぎませんでした。 

 


 最初の言葉でその人は私の方を振り向

きました。

 

「のっぺらぽー」そんなことを不知不識

の間に思っていましたので、それは私に

とって非常に怖ろしい瞬間でした。 

 

 

 月光がその人の高い鼻を滑りました。

 

私はその人の深い瞳を見ました。

 

と、その顔は、なにか極まり悪気な貌に

変わってゆきました。


「なんでもないんです」
 

 澄んだ声でした。そして微笑がその口

のあたりに漾いました。 

 

 

 私とK君とが口を利いたのは、こんな

ふうな奇異な事件がそのはじまりでした。

 

そして私達はその夜から親しい間柄にな

ったのです。