https://www.youtube.com/watch?v=bgF_hXZDYc4
ケーベル先生
夏目漱石
木の葉の間から高い窓が見えて、その
窓の隅からケーベル先生の頭が見えた。
傍から濃い藍色の煙が立った。先生は煙
草を呑んでいるなと余は安倍君に云った。
この前ここを通ったのはいつだか忘れ
てしまったが、今日見るとわずかの間に
もうだいぶ様子が違っている。
甲武線の崖上は角並新らしい立派な家に
建て易えられていずれも現代的日本の産
み出した富の威力と切り放す事のできな
い門構ばかりである。
その中に先生の住居だけが過去の記念の
ごとくたった一軒古ぼけたなりで残って
いる。
先生はこの燻ぶり返った家の書斎に這入
ったなり滅多に外へ出た事がない。
その書斎はとりもなおさず先生の頭が見
えた木の葉の間の高い所であった。
余と安倍君とは先生に導びかれて、敷
物も何も足に触れない素裸のままの高い
階子段を薄暗がりにがたがた云わせなが
ら上って、階上の右手にある書斎に入っ
た。
そうして先生の今まで腰をおろして窓か
ら頭だけを出していた一番光に近い椅子
に余は坐った。
そこで外面から射す夕暮に近い明りを受
けて始めて先生の顔を熟視した。
先生の顔は昔とさまで違っていなかった。
先生は自分で六十三だと云われた。
余が先生の美学の講義を聴きに出たのは、
余が大学院に這入った年で、
たしか先生が日本へ来て始めての講義だ
と思っているが、
先生はその時からすでにこう云う顔であ
った。
先生に日本へ来てもう二十年になります
かと聞いたら、そうはならない、たしか
十八年目だと答えられた。
先生の髪も髯も英語で云うとオーバーン
とか形容すべき、ごく薄い麻のような色
をしている上に、
普通の西洋人の通り非常に細くって柔か
いから、少しの白髪が生えてもまるで目
立たないのだろう。
それにしても血色が元の通りである。
十八年を日本で住み古した人とは思えな
い。
先生の容貌が永久にみずみずしている
ように見えるのに引き易えて、先生の書
斎は耄け切った色で包まれていた。
洋書というものは唐本や和書よりも装飾
的な背皮に学問と芸術の派出やかさを偲
ばせるのが常であるのに、
この部屋は余の眼を射る何物をも蔵して
いなかった。
ただ大きな机があった。色の褪めた椅子
が四脚あった。
マッチと埃及煙草と灰皿があった。
余は埃及煙草を吹かしながら先生と話を
した。
けれども部屋を出て、下の食堂へ案内さ
れるまで、余はついに先生の書斎にどん
な書物がどんなに並んでいたかを知らず
に過ぎた。
花やかな金文字や赤や青の背表紙が余
の眼を刺激しなかったばかりではない。
純潔な白色でさえついに余の眼には触れ
ずに済んだ。
先生の食卓には常の欧洲人が必要品とま
で認めている白布が懸っていなかった。
その代りにくすんだ更紗形を置いた布が
いっぱいに被さっていた。
そうしてその布はこの間まで余の家に預
かっていた娘の子を嫁づける時に新調し
てやった布団の表と同じものであった。
この卓を前にして坐った先生は、襟も襟
飾も着けてはいない。
千筋の縮みの襯衣を着た上に、玉子色の
薄い背広を一枚無造作にひっかけただけ
である。
始めから儀式ばらぬようにとの注意で
はあったが、あまり失礼に当ってはと思
って、余は白い襯衣と白い襟と紺の着物
を着ていた。
君が正装をしているのに私はこんな服で
と先生が最前云われた時、正装の二字を
痛み入るばかりであったが、
なるほど洗い立ての白いものが手と首に
着いているのが正装なら、余の方が先生
よりもよほど正装であった。
余は先生に一人で淋しくはありません
かと聞いたら、先生は少しも淋しくはな
いと答えられた。
西洋へ帰りたくはありませんかと尋ねた
ら、それほど西洋が好いとも思わない、
しかし日本には演奏会と芝居と図書館と
画館がないのが困る、それだけが不便だ
と云われた。
一年ぐらい暇を貰って遊んで来てはどう
ですと促がして見たら、そりゃ無論やっ
て貰える、けれどもそれは好まない。
私がもし日本を離れる事があるとすれば、
永久に離れる。
けっして二度とは帰って来ないと云われ
た。
先生はこういう風にそれほど故郷を慕
う様子もなく、あながち日本を嫌う気色
もなく、
自分の性格とは容れにくいほどに矛盾な
乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時
代の世態が、
周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮
き上って、自分をその中心に陥落せしめ
ねばやまぬ勢を得つつ進むのを、
日ごと眼前に目撃しながら、それを別世
界に起る風馬牛の現象のごとくよそに見
て、極めて落ちついた十八年を吾邦で過
ごされた。
先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられ
た希臘の彫刻に血が通い出したようなも
のである。
雑鬧の中に己れを動かしていかにも静か
である。
先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響
がない。
先生は紀元前の半島の人のごとくに、し
なやかな革で作ったサンダルを穿いてお
となしく電車の傍を歩るいている。
