https://www.youtube.com/watch?v=SZKtNFdC3Zg

 

 

 

 

 

Kの昇天

――或はKの溺死

 

梶井基次郎 

 

 

 


 お手紙によりますと、あなたはK君の

溺死について、それが過失だったろうか、

自殺だったろうか、

 

自殺ならば、それが何に原因しているの

だろう、あるいは不治の病をはかなんで

死んだのではなかろうかと様さまに思い

悩んでいられるようであります。

 

そしてわずか一と月ほどの間に、あの療

養地のN海岸で偶然にも、K君と相識っ

たというような、

 

一面識もない私にお手紙をくださるよう

になったのだと思います。

 

私はあなたのお手紙ではじめてK君の彼

地での溺死を知ったのです。

 

私はたいそうおどろきました。

と同時に「K君はとうとう月世界へ行っ

た」と思ったのです。

 

どうして私がそんな奇異なことを思った

か、それを私は今ここでお話しようと思

っています。

 

それはあるいはK君の死の謎を解く一つ

の鍵であるかも知れないと思うからです。 

 


 それはいつ頃だったか、私がNへ行っ

てはじめての満月の晩です。

 

私は病気の故でその頃夜がどうしても眠

れないのでした。

 

その晩もとうとう寝床を起きてしまいま

して、幸い月夜でもあり、

 

旅館を出て、錯落とした松樹の影を踏み

ながら砂浜へ出て行きました。

 

引きあげられた漁船や、地引網を捲く轆

轤などが白い砂に鮮かな影をおとしてい

るほか、浜には何の人影もありませんで

した。

 

干潮で荒い浪が月光に砕けながらどうど

うと打ち寄せていました。

 

私は煙草をつけながら漁船のともに腰を

下して海を眺めていました。

 

夜はもうかなり更けていました。 

 


 しばらくして私が眼を砂浜の方に転じ

ましたとき、私は砂浜に私以外のもう一

人の人を発見しました。

 

それがK君だったのです。

しかしその時はK君という人を私はまだ

知りませんでした。

 

その晩、それから、はじめて私達は互い

に名乗り合ったのですから。 

 


 私は折りおりその人影を見返りました。

 

そのうちに私はだんだん奇異の念を起こ

してゆきました。

 

というのは、その人影――K君――は私

と三四十歩も距っていたでしょうか、

 

海を見るというのでもなく、全く私に背

を向けて、砂浜を前に進んだり、後に退

いたり、

 

と思うと立ち留ったり、そんなことばか

りしていたのです。

 

私はその人がなにか落し物でも捜してい

るのだろうかと思いました。

 

首は砂の上を視凝めているらしく、前に

傾いていたのですから。

 

しかしそれにしては跼むこともしない、

足で砂を分けて見ることもしない。

 

満月でずいぶん明るいのですけれど、火

を点けて見る様子もない。 

 


 私は海を見ては合間合間に、その人影

に注意し出しました。

 

奇異の念はますます募ってゆきました。

 

そしてついには、その人影が一度もこち

らを見返らず、全く私に背を向けて動作

しているのを幸い、

 

じっとそれを見続けはじめました。

 

不思議な戦慄が私を通り抜けました。

 

その人影のなにか魅かれているような様

子が私に感じたのです。

 

私は海の方に向き直って口笛を吹きはじ

めました。

 

それがはじめは無意識にだったのですが、

あるいは人影になにかの効果を及ぼす

かもしれないと思うようになり、それ

は意識的になりました。

 

私ははじめシューベルトの「海辺にて」

を吹きました。

 

ご存じでしょうが、それはハイネの詩に

作曲したもので、私の好きな歌の一つな

のです。

 

それからやはりハイネの詩の「ドッペル

ゲンゲル」。

 

これは「二重人格」というのでしょうか。

 

これも私の好きな歌なのでした。

 

口笛を吹きながら、私の心は落ちついて

来ました。

 

やはり落し物だ、と思いました。

 

そう思うよりほか、その奇異な人影の動

作を、どう想像することができましょう。

 

そして私は思いました。あの人は煙草を

喫まないから燐寸がないのだ。

 

それは私が持っている。

とにかくなにか非常に大切なものを落と

したのだろう。

 

私は燐寸を手に持ちました。そしてその

人影の方へ歩きはじめました。

 

その人影に私の口笛は何の効果もなかっ

たのです。

 

相変わらず、進んだり、退いたり、立ち

留ったり、の動作を続けているのです。

 

近寄ってゆく私の足音にも気がつかない

ようでした。

 

ふと私はビクッとしました。

あの人は影を踏んでいる。

 

もし落し物なら影を背にしてこちらを向

いて捜すはずだ。 

 


 天心をややに外れた月が私の歩いて行

く砂の上にも一尺ほどの影を作っていま

した。

 

私はきっとなにかだとは思いましたが、

やはり人影の方へ歩いてゆきました。

 

そして二三間手前で、思い切って、


「何か落し物をなさったのですか」


 とかなり大きい声で呼びかけてみまし

た。

 

手の燐寸を示すようにして。


「落し物でしたら燐寸がありますよ」


 次にはそう言うつもりだったのです。

 

しかし落し物ではなさそうだと悟った以

上、この言葉はその人影に話しかける私

の手段に過ぎませんでした。 

 


 最初の言葉でその人は私の方を振り向

きました。

 

「のっぺらぽー」そんなことを不知不識

の間に思っていましたので、それは私に

とって非常に怖ろしい瞬間でした。 

 

 

 月光がその人の高い鼻を滑りました。

 

私はその人の深い瞳を見ました。

 

と、その顔は、なにか極まり悪気な貌に

変わってゆきました。


「なんでもないんです」
 

 澄んだ声でした。そして微笑がその口

のあたりに漾いました。 

 

 

 私とK君とが口を利いたのは、こんな

ふうな奇異な事件がそのはじまりでした。

 

そして私達はその夜から親しい間柄にな

ったのです。