https://www.youtube.com/watch?v=w5WaTNCh0Zk

 

 

 

 

 

檸檬 

梶井基次郎

 


 えたいの知れない不吉な塊が私の心を

始終圧えつけていた。

 

焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――

を飲んだあとに宿酔があるように、酒を

毎日飲んでいると宿酔に相当した時期が

やって来る。

 

それが来たのだ。

これはちょっといけなかった。

 

結果した肺尖カタルや神経衰弱がいけな

いのではない。

また背を焼くような借金などがいけない

のではない。

 

いけないのはその不吉な塊だ。

以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、

どんな美しい詩の一節も辛抱がならなく

なった。

 

蓄音器を聴かせてもらいにわざわざ出か

けて行っても、最初の二三小節で不意に

立ち上がってしまいたくなる。

 

何かが私を居堪らずさせるのだ。

それで始終私は街から街を浮浪し続けて

いた。 

 

 何故だかその頃私は見すぼらしくて美

しいものに強くひきつけられたのを覚え

ている。

 

風景にしても壊れかかった街だとか、そ

の街にしてもよそよそしい表通りよりも

どこか親しみのある、

 

汚い洗濯物が干してあったりがらくたが

転がしてあったりむさくるしい部屋が覗

いていたりする裏通りが好きであった。

 

雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、

と言ったような趣きのある街で、土塀が

崩れていたり家並が傾きかかっていたり

 

――勢いのいいのは植物だけで、時とす

るとびっくりさせるような向日葵があっ

たりカンナが咲いていたりする。 

 

 時どき私はそんな路を歩きながら、ふ

と、そこが京都ではなくて京都から何百

里も離れた仙台とか長崎とか

 

――そのような市へ今自分が来ているの

――という錯覚を起こそうと努める。

 

私は、できることなら京都から逃げ出し

て誰一人知らないような市へ行ってしま

いたかった。

 

第一に安静。がらんとした旅館の一室。

清浄な蒲団。

匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。

 

そこで一月ほど何も思わず横になりたい。

 

希わくはここがいつの間にかその市にな

っているのだったら。

――錯覚がようやく成功しはじめると私

はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけ

てゆく。

 

なんのことはない、私の錯覚と壊れかか

った街との二重写しである。

そして私はその中に現実の私自身を見失

うのを楽しんだ。 

 

 私はまたあの花火というやつが好きに

なった。

花火そのものは第二段として、あの安っ

ぽい絵具で赤や紫や黄や青や、さまざま

の縞模様を持った花火の束、中山寺の星

下り、花合戦、枯れすすき。

 

それから鼠花火というのは一つずつ輪に

なっていて箱に詰めてある。そんなもの

が変に私の心を唆った。 

 

 それからまた、びいどろという色硝子

で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好

きになったし、南京玉が好きになった。

 

またそれを嘗めてみるのが私にとってな

んともいえない享楽だったのだ。

 

あのびいどろの味ほど幽かな涼しい味が

あるものか。

 

私は幼い時よくそれを口に入れては父母

に叱られたものだが、その幼時のあまい

記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇え

ってくる故だろうか、

 

まったくあの味には幽かな爽やかななん

となく詩美と言ったような味覚が漂って

来る。 

 

 察しはつくだろうが私にはまるで金が

なかった。

とは言えそんなものを見て少しでも心の

動きかけた時の私自身を慰めるためには

贅沢ということが必要であった。

 

二銭や三銭のもの――と言って贅沢なも

の。

美しいもの――と言って無気力な私の触

角にむしろ媚びて来るもの。

――そう言ったものが自然私を慰めるの

だ。 

 

 生活がまだ蝕まれていなかった以前私

の好きであった所は、たとえば丸善であ

った。

 

赤や黄のオードコロンやオードキニン。

洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮

模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。

 

煙管、小刀、石鹸、煙草。

私はそんなものを見るのに小一時間も費

すことがあった。

 

そして結局一等いい鉛筆を一本買うくら

いの贅沢をするのだった。

しかしここももうその頃の私にとっては

重くるしい場所に過ぎなかった。

 

書籍、学生、勘定台、これらはみな借金

取りの亡霊のように私には見えるのだっ

た。 

 

 ある朝――その頃私は甲の友達から乙

の友達へというふうに友達の下宿を転々

として暮らしていたのだが

 

――友達が学校へ出てしまったあとの空

虚な空気のなかにぽつねんと一人取り残

された。

 

私はまたそこから彷徨い出なければなら

なかった。

何かが私を追いたてる。

 

そして街から街へ、先に言ったような裏

通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立ち留

まったり、

 

乾物屋の乾蝦や棒鱈や湯葉を眺めたり、

とうとう私は二条の方へ寺町を下り、そ

この果物屋で足を留めた。

 

ここでちょっとその果物屋を紹介したい

のだが、その果物屋は私の知っていた範

囲で最も好きな店であった。

 

そこは決して立派な店ではなかったのだ

が、果物屋固有の美しさが最も露骨に感

ぜられた。

 

果物はかなり勾配の急な台の上に並べて

あって、その台というのも古びた黒い漆

塗りの板だったように思える。

 

何か華やかな美しい音楽の快速調の流れ

が、見る人を石に化したというゴルゴン

の鬼面――的なものを差しつけられて、

 

あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固

まったというふうに果物は並んでいる。

 

青物もやはり奥へゆけばゆくほど堆高く

積まれている。

――実際あそこの人参葉の美しさなどは

素晴しかった。

 

それから水に漬けてある豆だとか慈姑だ

とか。 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=DW0U3nSPDqM&t=18s

 

 

 

 

 

交尾 

梶井基次郎

   その一

 


 星空を見上げると、音もしないで何匹

も蝙蝠が飛んでいる。その姿は見えない

が、瞬間瞬間光を消す星の工合から、気

味の悪い畜類の飛んでいるのが感じられ

るのである。 

 

人びとは寐静まっている。――私の立っ

ているのは、半ば朽ちかけた、家の物干

し場だ。

 

ここからは家の裏横手の露路を見通すこ

とが出来る。近所は、港に舫った無数の

廻船のように、ただぎっしりと建て詰ん

だ家の、同じように朽ちかけた物干しば

かりである。

 

私はかつて独逸のペッヒシュタインとい

う画家の「市に嘆けるクリスト」という

画の刷り物を見たことがあるが、それは

巨大な工場地帯の裏地のようなところで

跪いて祈っているキリストの絵像であっ

た。

 

その連想から、私は自分の今出ている物

干しがなんとなくそうしたゲッセマネの

ような気がしないでもない。しかし私は

キリストではない。

 

夜中になって来ると病気の私の身体は火

照り出し、そして眼が冴える。ただ妄想

という怪獣の餌食となりたくないためば

かりに、私はここへ逃げ出して来て、少

々身体には毒な夜露に打たれるのである。 

 


 どの家も寐静まっている。時どき力の

ない咳の音が洩れて来る。昼間の知識か

ら、私はそれが露路に住む魚屋の咳であ

ることを聞きわける。

 

この男はもう商売も辛いらしい。二階に

間借りをしている男が、一度医者に見て

もらえというのにどうしても聴かない。

 

この咳はそんな咳じゃないと云って隠そ

うとする。二階の男がそれを近所へ触れ

て歩く。

 

――家賃を払う家が少なくて、医者の払

いが皆目集まらないというこの町では、

肺病は陰忍な戦いである。

 

突然に葬儀自動車が来る。誰もが死んだ

という当人のいつものように働いていた

姿をまだ新しい記情のなかに呼び起す。

 

床についていた間というのは、だからい

くらもないのである。実際こんな生活で

は誰でもがみずから絶望し、みずから死

ななければならないのだろう。 

 


 魚屋が咳いている。可哀そうだなあと

思う。ついでに、私の咳がやはりこんな

風に聞こえるのだろうかと、私の分とし

て聴いて見る。 

 


 先ほどから露路の上には盛んに白いも

のが往来している。これはこの露路だけ

とは云わない。表通りも夜更けになると

この通りである。

 

これは猫だ。私はなぜこの町では猫がこ

んなに我物顔に道を歩くのか考えて見た

ことがある。

 

それによると第一この町には犬がほとん

どいないのである。犬を飼うのはもう少

し余裕のある住宅である。

 

その代り通りの家では商品を鼠にやられ

ないために大低猫を飼っている。犬がい

なくて猫が多いのだから自然往来は猫が

歩く。

 

しかし、なんといっても、これは図々し

い不思議な気のする深夜の風景にはちが

いない。彼らはブールヴァールを歩く貴

婦人のように悠々と歩く。

 

また市役所の測量工夫のように辻から辻

へ走ってゆくのである。 

 


 隣の物干しの暗い隅でガサガサという

音が聞こえる。セキセイだ。小鳥が流行

った時分にはこの町では怪我人まで出し

た。

 

「一体誰がはじめにそんなものを欲しい

と云い出したんだ」と人びとが思う時分

には、尾羽打ち枯らしたいろいろな鳥が

雀に混って餌を漁りに来た。

 

もうそれも来なくなった。そして隣りの

物干しの隅には煤で黒くなった数匹のセ

キセイが生き残っているのである。

 

昼間は誰もそれに注意を払おうともしな

い。ただ夜中になって変てこな物音をた

てる生物になってしまったのである。 

 


 この時私は不意に驚ろいた。先ほどか

ら露路をあちらへ行ったりこりこちらへ

来たり、二匹の白猫が盛んに追っかけあ

いをしていたのであるが、

 

この時ちょうど私の眼の下で、不意に彼

らは小さな唸り声をあげて組打ちをはじ

めたのである。組打ちと云ってもそれは

立って組打ちをしているのではない。

 

寝転んで組打ちをしているのである。

私は猫の交尾を見たことがあるがそれは

こんなものではない。

 

また仔猫同志がよくこんなにしてふざけ

ているがそれでもないようである。なに

かよくはわからないが、とにかくこれは

非常に艶めかしい所作であることは事実

である。

 

私はじっとそれを眺めていた。遠くの方

から夜警のつく棒の音がして来る。その

音のほかには町からは何の物音もしない。

 

静かだ。そして私の眼の下では彼らがや

はりだんまりで、しかも実に余念なく組

打ちをしている。 

 


 彼らは抱き合っている。柔らかく噛み

合っている。前肢でお互いに突張り合い

をしている。

 

見ているうちに私はだんだん彼らの所作

に惹き入れられていた。私は今彼らが噛

み合っている気味の悪い噛み方や、今彼

らが突っ張っている前肢の

 

――それで人の胸を突っ張るときの可愛

い力やを思い出した。どこまでも指を滑

り込ませる温かい腹の柔毛

 

――今一方の奴はそれを揃えた後肢で踏

んづけているのである。こんなに可愛い、

不思議な、艶めかしい猫の有様を私はま

だ見たことがなかった。

 

しばらくすると彼らはお互いにきつく抱

き合ったまま少しも動かなくなってしま

った。

 

それを見ていると私は息が詰って来るよ

うな気がした。と、その途端露路のあち

らの端から夜警の杖の音が急に露路へ響

いて来た。 

 


 私はいつもこの夜警が廻って来ると家

のなかへはいってしまうことにしていた。

 

夜中おそく物干しへ出ている姿などを私

は見られたくなかった。もっとも物干し

の一方の方へ寄っていれば見られないで

済むのであるが、雨戸が開いている、

 

それを見て大きい声を立てて注意をされ

たりするとなおのこと不名誉なので、彼

がやって来ると匆々家のなかへはいって

しまうのである。

 

しかし今夜は私は猫がどうするか見届け

たい気持でわざと物干しへ身体を突き出

していることにきめてしまった。

 

夜警はだんだん近づいて来る。猫は相変

わらず抱き合ったまま少しも動こうとし

ない。

 

この互いに絡み合っている二匹の白猫は

私をして肆な男女の痴態を幻想させる。

 

それから涯しのない快楽を私は抽き出す

ことが出来る。…… 

 

 

 

 

 


 

 

https://www.youtube.com/watch?v=UXARn4I4QIM

 

 

 

 

 

闇の絵巻 

梶井基次郎 


 最近東京を騒がした有名な強盗が捕ま

って語ったところによると、彼は何も見

えない闇の中でも、一本の棒さえあれば

何里でも走ることができるという。

 

その棒を身体の前へ突き出し突き出しし

て、畑でもなんでも盲滅法に走るのだそ

うである。 

 

私はこの記事を新聞で読んだとき、そぞ

ろに爽快な戦慄を禁じることができなか

った。

 

 闇! そのなかではわれわれは何を見

ることもできない。より深い暗黒が、い

つも絶えない波動で刻々と周囲に迫って

来る。

 

こんななかでは思考することさえできな

い。何が在るかわからないところへ、ど

うして踏み込んでゆくことができよう。

 

勿論われわれは摺足でもして進むほかは

ないだろう。しかしそれは苦渋や不安や

恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。

 

その一歩を敢然と踏み出すためには、わ

れわれは悪魔を呼ばなければならないだ

ろう。裸足で薊を踏んづける! その絶

望への情熱がなくてはならないのである。 

 

 闇のなかでは、しかし、もしわれわれ

がそうした意志を捨ててしまうなら、な

んという深い安堵がわれわれを包んでく

れるだろう。

 

この感情を思い浮かべるためには、われ

われが都会で経験する停電を思い出して

みればいい。停電して部屋が真暗になっ

てしまうと、われわれは最初なんともい

えない不快な気持になる。

 

しかしちょっと気を変えて呑気でいてや

れと思うと同時に、その暗闇は電燈の下

では味わうことのできない爽やかな安息

に変化してしまう。 

 

 深い闇のなかで味わうこの安息はいっ

たいなにを意味しているのだろう。今は

誰の眼からも隠れてしまった――今は巨

大な闇と一如になってしまった――それ

がこの感情なのだろうか。 

 

 私はながい間ある山間の療養地に暮ら

していた。私はそこで闇を愛することを

覚えた。昼間は金毛の兎が遊んでいるよ

うに見える谿向こうの枯萱山が、夜にな

ると黒ぐろとした畏怖に変わった。

 

昼間気のつかなかった樹木が異形な姿を

空に現わした。夜の外出には提灯を持っ

てゆかなければならない。

 

月夜というものは提灯の要らない夜とい

うことを意味するのだ。――こうした発

見は都会から不意に山間へ行ったものの

闇を知る第一階梯である。 

 

 私は好んで闇のなかへ出かけた。溪ぎ

わの大きな椎の木の下に立って遠い街道

の孤独の電燈を眺めた。深い闇のなかか

ら遠い小さな光を眺めるほど感傷的なも

のはないだろう。

 

私はその光がはるばるやって来て、闇の

なかの私の着物をほのかに染めているの

を知った。またあるところでは溪の闇へ

向かって一心に石を投げた。

 

闇のなかには一本の柚の木があったので

ある。石が葉を分けて戞々と崖へ当った。

ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な

柚の匂いが立ち騰って来た。 

 

 こうしたことは療養地の身を噛むよう

な孤独と切り離せるものではない。ある

ときは岬の港町へゆく自動車に乗って、

わざと薄暮の峠へ私自身を遺棄された。

 

深い溪谷が闇のなかへ沈むのを見た。夜

が更けて来るにしたがって黒い山々の尾

根が古い地球の骨のように見えて来た。

 

彼らは私のいるのも知らないで話し出し

た。


「おい。いつまで俺達はこんなことをし

ていなきゃならないんだ」 

 

 私はその療養地の一本の闇の街道を今

も新しい印象で思い出す。それは溪の下

流にあった一軒の旅館から上流の私の旅

館まで帰って来る道であった。

 

溪に沿って道は少し上りになっている。

三四町もあったであろうか。その間には

ごく稀にしか電燈がついていなかった。

 

今でもその数が数えられるように思うく

らいだ。最初の電燈は旅館から街道へ出

たところにあった。夏はそれに虫がたく

さん集まって来ていた。

 

一匹の青蛙がいつもそこにいた。電燈の

真下の電柱にいつもぴったりと身をつけ

ているのである。しばらく見ていると、

その青蛙はきまったように後足を変なふ

うに曲げて、背中を掻く模ねをした。

 

電燈から落ちて来る小虫がひっつくのか

もしれない。いかにも五月蠅そうにそれ

をやるのである。私はよくそれを眺めて

立ち留っていた。いつも夜更けでいかに

も静かな眺めであった。 

 

 しばらく行くと橋がある。その上に立

って溪の上流の方を眺めると、黒ぐろと

した山が空の正面に立ち塞がっていた。

 

その中腹に一箇の電燈がついていて、そ

の光がなんとなしに恐怖を呼び起こした。

バァーンとシンバルを叩いたような感じ

である。

 

私はその橋を渡るたびに私の眼がいつも

なんとなくそれを見るのを避けたがるの

を感じていた。 

 

 下流の方を眺めると、溪が瀬をなして

轟々と激していた。瀬の色は闇のなかで

も白い。それはまた尻っ尾のように細く

なって下流の闇のなかへ消えてゆくので

ある。

 

溪の岸には杉林のなかに炭焼小屋があっ

て、白い煙が切り立った山の闇を匍い登

っていた。その煙は時として街道の上へ

重苦しく流れて来た。

 

だから街道は日によってはその樹脂臭い

匂いや、また日によっては馬力の通った

昼間の匂いを残していたりするのだった。 

 

 橋を渡ると道は溪に沿ってのぼってゆ

く。左は溪の崖。右は山の崖。行手に白

い電燈がついている。それはある旅館の

裏門で、それまでのまっすぐな道である。

 

この闇のなかでは何も考えない。それは

行手の白い電燈と道のほんのわずかの勾

配のためである。これは肉体に課せられ

た仕事を意味している。

 

目ざす白い電燈のところまでゆきつくと、

いつも私は息切れがして往来の上で立ち

留った。呼吸困難。これはじっとしてい

なければいけないのである。

 

用事もないのに夜更けの道に立ってぼん

やり畑を眺めているようなふうをしてい

る。しばらくするとまた歩き出す。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=1IWqyrUmWg8

 

 

 

 

 

愛撫

梶井基次郎

 


 猫の耳というものはまことに可笑しな

ものである。

 

薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮の

ように、表には絨毛が生えていて、裏は

ピカピカしている。

 

硬いような、柔らかいような、なんとも

いえない一種特別の物質である。

 

私は子供のときから、猫の耳というと、

一度「切符切り」でパチンとやってみた

くて堪らなかった。

 

これは残酷な空想だろうか?

 

 


 否。まったく猫の耳の持っている一種

不可思議な示唆力によるのである。

 

私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあ

がって来た仔猫の耳を、話をしながら、

しきりに抓っていた光景を忘れることが

できない。

 

 


 このような疑惑は思いの外に執念深い

ものである。

 

「切符切り」でパチンとやるというよう

な、児戯に類した空想も、思い切って行

為に移さない限り、われわれのアンニュ

イのなかに、外観上の年齢を遙かになが

く生き延びる。

 

とっくに分別のできた大人が、今もなお

熱心に

 

――厚紙でサンドウィッチのように挾ん

だうえから一思いに切ってみたら? 

 

――こんなことを考えているのである! 

 

ところが、最近、ふとしたことから、こ

の空想の致命的な誤算が曝露してしまっ

た。

 

 


 元来、猫は兎のように耳で吊り下げら

れても、そう痛がらない。

 

引っ張るということに対しては、猫の耳

は奇妙な構造を持っている。

 

というのは、一度引っ張られて破れたよ

うな痕跡が、どの猫の耳にもあるのであ

る。

 

その破れた箇所には、また巧妙な補片が

当っていて、まったくそれは、創造説を

信じる人にとっても進化論を信じる人に

とっても、不可思議な、滑稽な耳たるを

失わない。

 

そしてその補片が、耳を引っ張られると

きの緩めになるにちがいないのである。

 

そんなわけで、耳を引っ張られることに

関しては、猫はいたって平気だ。

 

それでは、圧迫に対してはどうかという

と、これも指でつまむくらいでは、いく

ら強くしても痛がらない。

 

さきほどの客のように抓って見たところ

で、ごく稀にしか悲鳴を発しないのであ

る。

 

こんなところから、猫の耳は不死身のよ

うな疑いを受け、ひいては「切符切り」

の危険にも曝されるのであるが、

 

ある日、私は猫と遊んでいる最中に、と

うとうその耳を噛んでしまったのである。

 

これが私の発見だったのである。

 

噛まれるや否や、その下らない奴は、直

ちに悲鳴をあげた。

 

私の古い空想はその場で壊れてしまった。

 

猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。

 

悲鳴は最も微かなところからはじまる。

 

だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。

 

Crescendo のうまく出る

――なんだか木管楽器のような気がする。

 

 


 私のながらくの空想は、かくの如くに

して消えてしまった。

 

しかしこういうことにはきりがないと見

える。

 

この頃、私はまた別なことを空想しはじ

めている。

 

 


 それは、猫の爪をみんな切ってしまう

のである。

 

猫はどうなるだろう? 

おそらく彼は死んでしまうのではなかろ

うか?

 

 


 いつものように、彼は木登りをしよう

とする。

 

――できない。

人の裾を目がけて跳びかかる。

――異う。

爪を研ごうとする。

――なんにもない。

 

 

おそらく彼はこんなことを何度もやって

みるにちがいない。

 

そのたびにだんだん今の自分が昔の自分

と異うことに気がついてゆく。

 

彼はだんだん自信を失ってゆく。

 

もはや自分がある「高さ」にいるという

ことにさえブルブル慄えずにはいられな

い。

 

「落下」から常に自分を守ってくれてい

た爪がもはやないからである。

 

彼はよたよたと歩く別の動物になってし

まう。

 

遂にそれさえしなくなる。

絶望! 

 

そして絶え間のない恐怖の夢を見ながら、

物を食べる元気さえ失せて、

 

遂には――死んでしまう。

 

 


 爪のない猫! 

こんな、便りない、哀れな心持のものが

あろうか! 

 

空想を失ってしまった詩人、早発性痴呆

に陥った天才にも似ている!
 

 

 

 この空想はいつも私を悲しくする。

 

その全き悲しみのために、この結末の妥

当であるかどうかということさえ、私に

とっては問題ではなくなってしまう。

 

しかし、はたして、爪を抜かれた猫はど

うなるのだろう。

 

眼を抜かれても、髭を抜かれても猫は生

きているにちがいない。

 

しかし、柔らかい蹠の、鞘のなかに隠さ

れた、鉤のように曲った、匕首のように

鋭い爪! 

 

これがこの動物の活力であり、智慧であ

り、精霊であり、一切であることを私は

信じて疑わないのである。

 

 

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=R9QUSDBVMNY&t=2s

 

 

 

 

 

筧の話 

梶井基次郎

  


 私は散歩に出るのに二つの路を持って

いた。

 

一つは渓に沿った街道で、もう一つは街

道の傍から渓に懸った吊橋を渡って入っ

てゆく山径だった。

 

街道は展望を持っていたがそんな道の性

質として気が散り易かった。

 

それに比べて山径の方は陰気ではあった

が心を静かにした。

 

どちらへ出るかはその日その日の気持が

決めた。 


 しかし、いま私の話は静かな山径の方

をえらばなければならない。 


 吊橋を渡ったところから径は杉林のな

かへ入ってゆく。

 

杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷

たい湿っぽさがあった。

 

ゴチック建築のなかを辿ってゆくときの

ような、犇ひしと迫って来る静寂と孤独

とが感じられた。

 

私の眼はひとりでに下へ落ちた。

 

径の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の

類がはえていた。

 

この径ではそういった矮小な自然がなん

となく親しく

 

――彼らが陰湿な会話をはじめるお伽噺

のなかでのように、眺められた。

 

また径の縁には赤土の露出が雨滴にたた

かれて、ちょうど風化作用に骨立った岩

石そっくりの恰好になっているところが

あった。

 

その削り立った峰の頂にはみな一つ宛小

石が載っかっていた。

 

ここへは、しかし、日がまったく射して

来ないのではなかった。

 

梢の隙間を洩れて来る日光が、径のそこ

ここや杉の幹へ、蝋燭で照らしたような

弱い日なたを作っていた。

 

歩いてゆく私の頭の影や肩先の影がそん

ななかへ現われては消えた。

 

なかには「まさかこれまでが」と思うほ

ど淡いのが草の葉などに染まっていた。

 

試しに杖をあげて見るとささくれまでが

はっきりと写った。 


 この径を知ってから間もなくの頃、あ

る期待のために心を緊張させながら、私

はこの静けさのなかをことにしばしば歩

いた。

 

私が目ざしてゆくのは杉林の間からいつ

も氷室から来るような冷気が径へ通って

いるところだった。

 

一本の古びた筧がその奥の小暗いなかか

らおりて来ていた。

 

耳を澄まして聴くと、幽かなせせらぎの

音がそのなかにきこえた。

 

私の期待はその水音だった。 


 どうしたわけで私の心がそんなものに

惹きつけられるのか。

 

心がわけても静かだったある日、それを

聞き澄ましていた私の耳がふとそのなか

に不思議な魅惑がこもっているのを知っ

たのである。

 

その後追いおいに気づいていったことな

のであるが、この美しい水音を聴いてい

ると、その辺りの風景のなかに変な錯誤

が感じられて来るのであった。

 

香もなく花も貧しいのぎ蘭がそのところ

どころに生えているばかりで、杉の根方

はどこも暗く湿っぽかった。

 

そして筧といえばやはりあたりと一帯の

古び朽ちたものをその間に横たえている

に過ぎないのだった。

 

「そのなかからだ」と私の理性が信じて

いても、澄み透った水音にしばらく耳を

傾けていると、聴覚と視覚との統一はす

ぐばらばらになってしまって、

 

変な錯誤の感じとともに、訝かしい魅惑

が私の心を充たして来るのだった。 


 私はそれによく似た感情を、露草の青

い花を眼にするとき経験することがある。

 

草叢の緑とまぎれやすいその青は不思議

な惑わしを持っている。

 

私はそれを、露草の花が青空や海と共通

の色を持っているところから起る一種の

錯覚だと快く信じているのであるが、

 

見えない水音の醸し出す魅惑はそれにど

こか似通っていた。 


 すばしこく枝移りする小鳥のような不

定さは私をいらだたせた。

 

蜃気楼のようなはかなさは私を切なくし

た。

 

そして深祕はだんだん深まってゆくのだ

った。

 

私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、

やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。

 

束の間の閃光が私の生命を輝かす。

そのたび私はあっあっと思った。

 

それは、しかし、無限の生命に眩惑される

ためではなかった。

 

私は深い絶望をまのあたりに見なければな

らなかったのである。

 

何という錯誤だろう! 

 

私は物体が二つに見える酔っ払いのように、

同じ現実から二つの表象を見なければなら

なかったのだ。

 

しかもその一方は理想の光に輝かされ、も

う一方は暗黒の絶望を背負っていた。

 

そしてそれらは私がはっきりと見ようとす

る途端一つに重なって、またもとの退屈な

現実に帰ってしまうのだった。 


 筧は雨がしばらく降らないと水が涸れ

てしまう。

 

また私の耳も日によってはまるっきり無

感覚のことがあった。

 

そして花の盛りが過ぎてゆくのと同じよ

うに、いつの頃からか筧にはその深祕が

なくなってしまい、

 

私ももうその傍に佇むことをしなくなっ

た。

 

しかし私はこの山径を散歩しそこを通り

かかるたびに自分の宿命について次のよ

うなことを考えないではいられなかった。
 

「課せられているのは永遠の退屈だ。

生の幻影は絶望と重なっている」